その後の愛すべき不思議な家族

   6

 暑く、そして色々な問題が発生しては解決した夏も終わりに近づきつつある。もっとも、現在進行形のわけのわからない厄介事もあるが、この際それは無視しておく。考えれば考えるほどに、疲れるだけだと松島――高木和葉は理解していた。
 久しぶりの休日、仕事中の夫――高木春道を邪魔しないように、和葉はひとりリビングでぼーっとしていた。家事はすでに済ませており、夕食の下準備も済んでいる。やるべき事をひとつずつ片付けていき、結果やる事がなくなってしまった。
 休日のほとんどを出勤しているので、こうして一日中時間があっても、何をしたらいいのかよくわからないのが本音だった。気を遣わせたくなかったので、高木春道には休みなのを教えていない。
 そうこうしてるうちに、玄関のドアが開いた。娘の高木葉月が小学校から帰宅したのだ。以前はいじめを受けていたが、今では一切そんなことはなくなったみたいだった。こうして真っ直ぐ帰ってくるケースも段々と少なくなりつつある。
「お帰りなさい」
 靴を見て、和葉が自宅にいると知ったのだろう。葉月はトタトタと慌ててリビングへやってきた。元気に「ただいま」と返事をしたあとで、今度は自分の部屋にランドセルなどの荷物を置きに行く。
 結構なことだと和葉は素直に感心する。幼い頃から帰宅時の挨拶や、うがい手洗いなどは徹底して教えてきた。それをしなかった場合にどう怒られるかも重々承知しており、今日では滅多に忘れたりしなくなった。
「ママ、今日早いねー」
「実はお休みだったのよ」
 そう言えば葉月にも教えてなかった。とはいえ、娘は学校があるので一緒に遊びに出かけたりはできなかった。それでなくても、つい最近私事で結構休ませてしまっている。
「じゃあ、パパとデートしてきたー?」
 冷蔵庫にしまっていた麦茶をコップに注いでいる最中で、とんでもない質問が娘の口から飛んできた。あまりに唐突すぎて、危うくお茶をこぼしそうになってしまう。
 ドキドキしている心臓へ落ち着くように告げてから「してないわ」と、平然を装いつつ葉月に言葉を返した。
「ふーん。誘わなかったんだー」
 本人は何気なく口にしたつもりなのだろうが、和葉からすれば想定外な発言である。記憶が確かなら、あまり色恋沙汰に興味を示したりしてなかったはずだ。それが最近では、ちょくちょくこうした系統の質問などをするようになっていた。
 これも増えた友人の影響なのだろうか。だとすると、良かったのか悪かったのか、いまいちわからなくなってくる。もっとも子供とはいえ、女性なのだからこうしたことに興味を持ちたがるのも理解できる。和葉も小さい頃はそうだった。
 きっと皆、こうした経験を少しずつ積んでいきながら大人になっていくのだろう。しみじみそんなことを考えていると、自分が急に歳をとったように感じられる。和葉はまだ二十代。後半とはいえ、間違いなく若い部類に属する年代である。
 若い頃から葉月と共に生きてきたので、最近までそうした問題とはとんとご無沙汰だったのだ。年寄りじみた感想を抱いてしまうのも、ある意味仕方ないのかもしれない。学生時代は実家が厳しく、誰かと交際した記憶もほとんど残ってなかった。
「そうなんだー。でも、ママはパパが好き好きなんだよねー」
 麦茶を注いだコップを娘へ差し出したあとで、今度は自分の分を注ぐ。その途中でのビックリクエスチョンだった。驚きすぎて、ガタンと椅子を鳴らしてしまう。幸いにしてお茶はこぼさなかったが、先ほどよりもかなり危険な状況だった。
「ど、どうしたの。いきなり……」
 いくら心を許してる娘が相手でも、心にある想いをストレートに口に出すのははばかられた。そんな簡単に、自分の気持ちを素直に表現できるのなら、夏に解決した問題のいくつかは発生すらしていない。
 葉月は質問した意図を説明するどころか、にこにこしたまま麦茶を飲んでいる。何を言われてるわけでもないのに、何故か和葉は自分が逃げられない袋小路まで追い詰められてるような気がしてならない。
 簡単に話題を返れそうな雰囲気でもなく、仕方なしに和葉はため息まじりに娘へ頷いてみせた。
「そうね。嫌いではないわ」
 想いを口にする気恥ずかしさから、遠回りな言い方をしてしまう。夫には、散々しっかり想いを言葉にしてと要求したが、いざ自分がするとなるとしり込みしてしまう。小石川祐子との一件があった際の春道も、こんな気持ちだったのかもしれない。
「じゃあ、いつからパパを好き好きになったのー。最初からー?」
 あまりに次々と質問されるため、和葉は逃げるべく「宿題をやらなくていいの」と問いかけたが、葉月曰く宿題がでなかったらしい。まさかこれも、娘の担任である小石川祐子の入れ知恵なのではないか。そんな疑いさえ抱いてしまう。
 どうあっても逃がしてくれそうにないため、和葉は観念して口を開く。春道がいるのならともかく、リビングにいるのは葉月だけなのだ。それに娘として、夫婦仲が気になってる可能性もある。だとしたら、不安を少しでも取り除いてあげたかった。
「初めて出会った時は、銭湯の帰り道だったわね。葉月がいきなりいなくなるから、凄く驚いたわ。でもそのあとで、もっとビックリする事態が待っていたのよね」
 自宅のお風呂の調子が悪く、たまたま近くの銭湯に出かけていったのが事の始まりだった。そして、そこに高木春道も連日通っていた。偶然が偶然を呼び、砂粒ほども予期していなかった出会いが唐突に訪れたのである。
 事実は小説よりも奇なり。縁は異なもの味なもの。どうしてこんな言葉が作られたのか、理由がはっきりとわかる出来事だった。当時の和葉は、怒りにも似た感情を覚えていた。それが第一印象みたいなものだった。
 理由は単純明快。適当に父親役を指名した人物なだけに、ひょっこり目の前に現れてくれると大迷惑だったのである。もっとも当の春道は、そんなことを言われても困惑しただけに違いない。
「ふ〜ん。最初はパパが嫌いだったんだー」
「そうね。冷静になって考えれば、理不尽極まりない理由なのだけれど、あの時はゆっくり気持ちを落ち着かせてる余裕なんてなかったもの。仕方ないわ」
 娘ともども麦茶で喉を潤してから、話を次に進める。葉月は自分が和葉の本当の娘でない事実を知っているし、その上で春道ともども両親として認めてくれている。それゆえに、こうした話もできる。
 けれど葉月にも言ったとおり、高木春道と初対面を果たした和葉には余裕など一切なかった。どうしようという言葉だけが駆け巡っている頭で、懸命に対策を考えた。
 銭湯でのファーストコンタクトを終えたあとも、万が一の事態を想定して対処法を思案し続けた。結果的に、そうしておいてよかったと思える出来事が間もなく訪れる。それがスーパーでのセカンドコンタクトである。
 一度会ってしまった以上、二度と会わなければ問題ないで済まされない。葉月の性格を考えれば、絶対に探したがるに決まっていたからだ。そう簡単に見つかるとは思えなかったが、頑固なところだけは和葉に似た娘もまた諦めようとはしない。
 高木春道と二度目の対面をする前には、すでにそうした結論に達していた。だからこそ、比較的スーパーでは冷静な対応ができたのである。もしシミュレートしてなかったら、和葉はパニックに陥り、その場で声を荒げていた確率が高い。
 出会ってしまったものは仕方ない。そう割り切れるようになったが、結婚を申し出るのにはかなりの勇気が必要だった。相手に怪しまれないために真実を打ち明ければ、それを逆手にとられて過度の要求を突きつけられる危険性もある。
 それでも話せる限りの事情を説明しなければならなかった。仮にそれを怠れば、相手が和葉の提案に同意してくれる確率が限りなく低くなる。そうなっては元も子もない。
 そういう判断で一か八かの賭けに出た。その男性とは現在も関係が続いてるのだから、勝ったか負けたかで言えば当然前者になる。事前の約束どおり、同居後の高木春道は妻となった和葉に手を出してきたりはしなかった。
 今にして考えれば、相手が童貞で経験がなかったせいかもしれない。けれど当時の和葉は、その影響で高木春道への評価をずいぶん見直すこととなった。悪印象から、同居をするだけなら問題のない人物へと格上げになったのである。
 だがその後に新たな問題が勃発する。娘のいじめ問題だ。そこでまたまた、高木春道に対する印象が右へ左へと揺れ動く結果になった。当初は葉月に興味なさげだったのに、この頃から少しずつ様子が変わってきていた。
「あの頃のママは、葉月だけがすべてだったの。パパが本当のパパではないとバレないように、一緒に遊んだりしないでくださいって何度もお願いにいったわ」
 この台詞で、これまで黙って聞いていた葉月がぷーっとほっぺを膨らませた。当時、自分が高木春道から無下にされてた原因を知って、怒っているのである。すかさず和葉は「本当にごめんなさいね」と謝る。
「貴女は最初から、春道さんが実の父親でないのを知っていたんだものね。それなのに、一生懸命お父さんになってもらおうとしていた。それもママのために……本当に葉月が娘でママは幸せよ」
 滅多になく、優しく褒められたものだから、拗ね気味だった表情が一転してにぱっとした笑顔に変わる。ころころと表情が変わるところも、娘の可愛いところだった。けれどこうして過去を振り返ってみると、当時は笑顔の比率が高かった気がする。
 もしかしたら和葉に気を遣って、色々な心配をかけないよう常に笑顔でいるのを心がけていたのかもしれない。そうだとしたら、ますます葉月に申し訳なかった。娘に苦労をかけるなんて、母親失格である。
 しかし、最近ではこれでよかったのだと思い始めてもいた。何故なら、この頃に和葉が鋭敏さを発揮して、娘の状態に気づいていれば、高木春道とここまでの関係になったりはしてなかった。
 結果として今が幸せなので、当時の判断としては愚か極まりなくても、振り返ってみれば最良の選択だったと言えなくもない。正しいと思っていたものが、必ずしもそうではなかったと実感する典型的な一幕だった。
「ママの気持ちをパパもきちんとわかってくれていてね。なるべく葉月と深く接しないようにしてくれていた。それでも葉月がパパ、パパって言うものだから、嫉妬してた時もあったのよ」
 通り過ぎてきた出来事だから笑って思い出せるが、当時は腸が煮えくり返るような怒りを覚えていた。本当なら高木春道を追い出したかったが、葉月のことを考えて和葉から頼み込んだ同居生活だけに、そんな真似ができるはずもなかった。
 だからこそ、娘が素直に話してくれなかったいじめ問題を解決して、和葉こそが一番の理解者なのだと両者に証明したかった。葉月が通う小学校へ乗り込み、案内された会議室で、机を叩きながら担任である女教師へ問題解決を訴えた。
 あまりに激しい剣幕だったので、多少引かれていたがそんなのは関係なかった。最後には教頭先生にも事態収拾を約束させて、和葉は意気揚々と学校から引き上げたのである。
「でも、事はそう簡単に終わらなかったのよね。逆にママのせいで、葉月へのいじめはより激しくなってしまった」


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