その後の愛すべき不思議な家族

   7

 それほど昔ではないのに、当時がとても懐かしく思える。こうして感慨深げに振り返れるのも、高木春道がいればこそだった。葉月もその時の出来事を思い出してるようで、ほんの少しだけ悲しそうにする。
 結局、母親なのに和葉は娘のいじめ問題を解決できなかったのだ。一応は注意したものの、それ以降はほとんど教師たちは見てみぬふりに近い状態だったという。これは解決したあと、しばらくしてから葉月に教えてもらった情報だった。
 和葉が学校へ乗り込んだ時点で、高木春道はそのことを予見していた。一応忠告はしてくれていたのだが、自分が母親であるというプライドみたいなものから素直に聞けなかったのだ。それが事態の複雑化を招いた。
 解決のきっかけとなったのは、一枚のプリントだった。プリントといえば、ついこの前のくだらない事件を思い返してしまうが、それとはまったく関係ない。内容は父兄参観についての案内だった。
 それをリビングのゴミ箱から見つけた高木春道は、悩んだ末に父兄参観に駆けつけた。その足で、もののついでとばかりにあっさりいじめ問題も解決してしまったのである。
 現在なら普通に感謝してる可能性が高い。しかし当時の和葉は、並々ならぬ嫉妬を覚えたのを今でもはっきり記憶している。それが原因で葉月にも八つ当たりしてしまった。母娘の間に溝ができ、苛立ちだけが募った。
 こんなことなら、結婚なんてしなければよかった。もっと言えば、葉月が傷つくのを覚悟の上で離婚してしまおうか。そこまで考えるほど、深刻な精神状態に陥ってしまった。つくづく人間の嫉妬というのは醜く、そして恐ろしいものである。
 その溝を埋めてくれたのも、同居していた男性だった。葉月に謝るよう促してくれ、親子喧嘩が長引いたりはしなかった。けれど、それが逆に和葉を追い詰めた。取るに足らない存在だったはずの高木春道の存在感が、徐々にプレッシャーへ変わっていた。
 このままでは娘を奪われてしまうのではないか。会社でも思い悩む日々が続く中、唐突に縁を切ったはずの実家から電話がかかってきた。兄である戸高泰宏の声を聞いたのも、凄く久しぶりだった。
「葉月、覚えてるよー。ママが行きたくないって、駄々こねたんだよねー」
「だ、駄々……ま、まあ、噛み砕いて言えばそうかもしれないわね。でもね、葉月。物事には、いいようというものがあるのではないかしら。決して弁解してるわけではないのよ。ママは葉月に、きちんとした言葉遣いを覚えてもらいたいの」
「うん、わかったー。それでそれでー」
 本当にわかったのかどうかは疑問だったものの、これ以上この問題を掘り下げたところで、損をするのは和葉ひとりのような気がしてならない。そこで、とりあえずは娘の要求どおりに、次の展開へ話を持っていく。
 ここでふと疑問点がひとつ浮かび上がる。別にここのくだりは説明しなくても、葉月が同席していたのだから問題ないのではないか。しかし、娘はあくまで和葉がどういう経緯で高木春道へ好意を持ったか知りたがっている。
 ならばきちんと、その時々における自分の心情を話しておくべきかもしれない。そうすることで娘が、母親である和葉への理解を深めてくれるのなら、対価として多少の恥をかくぐらいは甘んじて受け入れるべきだった。
「その頃のママは、お父さんに裏切られたというか、捨てられたように思っていたの。年齢ばかり重ねただけで、その人の真意まできちんと汲み取れない子供だったのね。本当の想いを理解できていたら、もう少し違ったお別れの仕方ができたかもしれない」
 目に見える形ではっきり和解できなかったのは、和葉にとって後悔以外の何者でもない。意地を張らずに、色々な人の意見に耳を傾けていれば、目の前にある道は一本でなく、きっと二本にも三本にも増えていた。
 父親が存命時に実家へ戻ったはいいが、病状の重さを知らなかった和葉は、結局喧嘩別れをしてしまう。葉月も冷たくあしらわれていたが、かなりしつこく食い下がっていたのを記憶している。
「だって、お祖父さんの目、とっても優しかったんだよ。最後にね、少しだけ怖くなっちゃったけど、それでもね、なんか凄く暖かかったの。だから、お祖父さんはいい人だってわかってたんだよ」
 当時について、尋ねた際の答えがこれだった。母親である和葉には気づけなかった父親――葉月からすれば祖父の内心を、娘だけはしっかりと気づいていた。もしかすると、その場にいた高木春道も、薄々感づいていたのかもしれない。
 高木春道には実家までの運転手を頼んでいた。行きも帰りお世話になった。その日のうちに帰ることになったのだが、和葉には予想どおりの展開だった。事前にとっておいた温泉旅館の予約が、無駄にならなくてすんだのである。
 これは娘へのお詫びでもあった。いじめ問題を解決するどころか、余計に苦しめてしまった。そしてそっけない態度をとられるのがわかりつつ、葉月を祖父に会わせてしまったことへの罪滅ぼしだった。
 どれだけ嫌ってたとはいえ、やはり家族。和葉もひと目でいいから、父親の顔を見ておきたかったのだ。どうして実家に行こうと決めたのか、後で思い返してみてようやく理由が判明した。
 そして高木春道へのお礼も兼ねている。色々と思うところはあったものの難しい問題を解決してくれたのは、間違いなく偶然の出会いから同居するに至った男性の功績なのだ。面と向かって言うのは照れくさかったので、こうして回りくどい手法をとった。
 変に親しくなられても困ると思った和葉は、温泉旅館へ泊まる本当の理由を高木春道に説明しなかった。伝令になりかねない娘にも、教えていない。とっくにタイミングを失っているので、これらを告白するつもりは毛頭なかった。
 実家に戻った際の問題はもうひとつあった。それは、高木春道が和葉と葉月の本当の関係を知ってしまったことである。原因は実兄の戸高泰宏のうっかりであり、どのような対処をすべきかおおいに頭を悩ませた。
 しかし同居男性は、まったく知らないふりをしてくれた。娘に何を話すわけでもなく、応対を変えたりもしない。これまでどおりに、和葉と葉月へ接してくれたのである。この一件で、高木春道を見る目が大きく変わった。
 自堕落な人間だと思っていた男性を心の底から見直し、感謝するようになった。有利な条件を提示されたからとはいえ、簡単に結婚を決意できるものではない。相手は無関心のようでいて、常に和葉たち母娘を見守ってくれていた。
 これは和葉の勝手な感想であり、本人に聞いても恐らく肯定はしないだろう。それでもこの件を境に、感情の針が大きく揺れ動いていくことになる。
 それが如実な変化を見せるのは、温泉旅館から帰宅した後に訪れた葉月の運動会だった。家族で参加したがる娘から、和葉が出るなら高木春道も出ると聞かされた。明らかにこちらへ気を遣ってるのがわかる。
「パパはお仕事があるのだから、迷惑をかけては駄目よ。ママひとりでもいいでしょう」
 以前の和葉なら、間違いなくこう言って娘を諭していたに違いない。けれどこの時の心境はまったく違った。葉月が望むのであれば、そのとおりにしてあげようと本心から思ったのである。
 子供嫌いでひとりが好きと公言し、プログラマーという和葉には深く理解できない職種で、ほぼ一日中部屋に引き篭もっている。同居当初は不気味に思ったりもしたが、様々な出来事を通り過ぎた末に、意外と思慮深い人物であることがわかっていた。
 関係すべてを否定するのではなく、ある程度は葉月と高木春道の意思に任せてもいいのではないか。そう思い始めてもいた。唯一心配だったのは、二人が仲良くなりすぎてしまうことだった。
 いずれ夫婦関係は清算される。最初からその約束で和葉と春道は結婚したのである。すべては娘のためだ。もちろん、そうした約束事を葉月は知らない。いざその時になって、取り乱したりはしないか。考えると不安ばかりが募ってくる。
 思案を重ねていくうちに、やがて解決方法も徐々に見つかりだす。和葉と高木春道が本物の家族になればいいのだ。自分自身で導いてしまった解答のひとつではあったが、当時は即座に否定した。
 どこかもやもやとした気分を抱いたまま、運動会の当日にまたもや事件が起こる。人生はハプニングの連続で作られてるようなものだが、それにしてもここ最近の発生率は異常だった。
 運動会で好成績を収めた葉月が、父親へ自慢しようとしたのに、肝心の当人の姿がない。そこで和葉が探しに行くと告げて、校庭の方を歩いていた。そこで偶然にも、娘の担任である女教師と一緒にいる高木春道を見つけた。
 盗み聞きするつもりはなかったが、和葉の存在に気づかないまま、会話を始めてしまう。移動したくてもできない状況の中、女教師の小石川祐子が、高木春道へ突然の告白をした。これには驚くと同時に、複雑な感情も覚えた。
「あー。ママ、やきもち焼いたんだー」
 これまで比較的おとなしく話を聞いていた葉月が、リビング内へ響き渡るほどの大きな声を発した。楽しくて仕方ないといった様子だ。やはり女の子なのだな。こういう姿を見せられれば、どうしてもそんな感想を抱く。
「今にして思えば、そうだったのかもしれないわね。確かにママは苛々していたもの。けれど、その時は自分の気持ちの正体も、どうしてそんなふうになるのかもわからなかったの。ただ心臓がドキドキしてたのはよく覚えてるわ」
 運動会で目撃した話を、誰かにするのはこれが初めてだった。本来なら端折ってもいい箇所かもしれないが、一応は葉月も先日の小石川祐子事件に巻き込まれた被害者のひとりだ。教えておいても罰は当たらない。
「で、パパは何て答えたのー。まさか先生ともらぶらぶになったりしてないよねー」
 案の定ノリノリになってきた娘は、座っている椅子から身を乗り出し気味にして尋ねてきた。当時の詳細を知らないとはいえ、この間のこともあるのだからある程度予測はついてもよさそうなのだが、本気で葉月は心配してるみたいだった。
 どうせなら嘘を言って、高木春道を困らせてみようかとも思ったが、そんな真似をすればあとで困るのは和葉だ。真実を知った娘に「適当なお話をするママなんて、だいっきらい!」なんて言われたら泣きたくなる。
「もちろんパパは断ったわ。それも凄くキザな台詞だったのよ」
 高木春道が小石川祐子を振った際の台詞は、今でもはっきり覚えていた。好意なんて抱いてないはずなのに、何故だか胸がとても熱くなった。結局その発言が、芽生えたばかりの想いに栄養たっぷりの水となって、和葉の心の地面を潤した。
「パパ、かっこいいー」
 記憶していた内容を教えると、愛娘は可愛らしい瞳をキラキラさせながら、叫ぶように父親を称賛した。
「でも相手は諦めなかったのね。しつこくパパに食い下がったわ。だから、そこでママがその場に出て行ったの」
 どうしてそんな真似をしたのか。その問いに対する答えは、勢い以外に存在しない。昂ぶる鼓動が、ここで高木春道の想いに応えるべきだと背中を押したのかもしれない。
「しゅらばだー。しゅらばー」
「……どこで修羅場なんて言葉を覚えたの」
「うーんとね、うーんとね。夏休みにね、お昼にお家のテレビでやってたよー」
 恐らくは友達と遊ぶか何かで、普段よりも遅く昼食をとることになった。そこでなんとなしにテレビを点けたら、愛憎がたっぷり詰まった昼のメロドラマが放映されていた。そう考えて間違いなさそうである。
 意味もわからずに見てたのだろうが、迂闊だった。こうしたケースが今後はないように、平日の休みがある場合には、しっかり高木春道に頼んでいかなければならない。過保護かもしれないが、多感な時期だからこその判断に他ならない。
「あまりその言葉を使っては駄目よ。ママと約束してくれるなら、お話を続けてあげる」
「約束する。するするー。だから続きー」
 すっかり夢中になっている愛娘を、微笑ましく見つめながら話を再開する。小石川祐子と高木春道のいる場所へ、呼吸を整えた和葉が乱入した場面である。


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