その後の愛すべき不思議な家族

   8

 あの時の高木春道の顔は今でも忘れられない。吃驚しながらも、和葉がどこまで聞いていたのか恐る恐る目で確かめようとしていた。その様子があまりに子供じみていて、これまで大人な対応を目にする機会が多かっただけに、やたら新鮮に感じられた。
 人の夫に告白したばかりの女教師と正面から言い合い、それほど時間も経過しないうちに勝利を収めた。高木春道はすでに回答しており、元々勝敗は決していたも同然だったのに、小石川祐子が未練たらたらに粘っていただけなのだから、当然の結果である。
 こうした問題が発生したりしたが、とりあえず無事に運動会は終了する、後になって、またぶり返すことになるとは、この時はまったく想像もしていなかった。それもこれもすべて、高木春道に隙が多いせいである。
「マ、ママ……なんか、怖い……」
「あ、ご、ごめんなさい。何でもないの」
 どうやら心情が表情となって、前面に出てしまっていたみたいだった。よほど怒りに満ちていたのだろう。正面に座っている娘を怖がらせてしまった。どうも最近は感情的になりすぎるので、少しばかり注意した方がよさそうである。
 この運動会の時から、少なからず高木春道を意識するようになっていた。父親とも袂を分かち、自分の力で娘とともに生きていく。そう決意していた和葉の唯一の理解者に思えたのだ。自宅にいても、視界に同居男性が映れば、目で追うケースが増えた。
 葉月だけがいればいい。そうは思っていても、高木春道の顔を見れば、なんだかホッとする和葉がいた。そんな自分に戸惑いつつも、決して悪い気はしなかった。これが本物の恋なのかもしれない。初めてそう思った。
 ゆるやかな時間の流れの中で、少しずつ家族として形になっていければいい。そんなふうに願望を抱き始めた和葉に、まったく予期していなかった訃報が知らされた。実の父親が他界したのである。
 家族の縁を切られていたといえ、血の流れまで絶ち切れはしない。やはりショックを受けたものの、その時はそれほど悲しみを感じなかった。愛娘にこの事実を教えれば、きっと大泣きするだろうな。頭に浮かんできたのは、そんな感想だけだった。
 そこで和葉は葉月に出張だと嘘をつき、自分が不在時の娘の面倒を高木春道に頼んだ。この頃になると不信感なんてものは一切なく、逆に強く信頼していた。同居男性にも本当の理由を告げるつもりはなかったが、恐らく勝手に感づく可能性が高い。
 他人の気持ちを思いやれる人だからこそ、自分から葉月には教えないだろうし、仮に娘が真実を知った場合でも、うまく対処してくれる。そう信じてすべてを任せた。
 そうしてひとり実家に戻った和葉だったが、物言わぬ父親と対面しても、悲しんで涙を流したりはしなかった。どちらかといえば、呆然としていた。電話は本当だったんだと、どこか他人事のように思えた。
 現実ではないどこかへ、迷い込んだような状態だったのだ。それに気づいたのは、もっと後になってからである。普段人から冷静だと言われるが、肝心なところではいつもこんな感じだ。表面上平静さを装っていても、頭や心の中は大混乱中である。
 自分の気持ちを整理できないまま時間だけがすぎ、このまま形式的にひとつずつすべきことを終えていくのだと思っていた。そんな和葉の耳に、聞こえるべきはずのない声が届いてきた。愛娘の葉月だった。
 何を考えたのか、高木春道が車で戸の実家まで葉月を連れてきたのである。こんな場面に遭遇させたくないからこそ置いてきたのに、わざわざこちらの気遣いをぶち壊してくれたのだ。裏切られたような気分になり、和葉は相手へ激しい怒りを覚えた。
 最初はそれでも娘の手前、なるべく温厚に注意をしようと考えていた。けれどすぐに感情が爆発してしまい、激流のごとく押し寄せてくる言葉が、次から次へと口から飛び出していった。
 和解もせずに実父と死別し、言いようのない虚脱感に支配された。そんな中での出来事だっただけに、直情的になりすぎたせいもあった。これまでの自身のプレッシャーや悩みなどを、怒鳴り声とともにすべてぶつけた。
 後になって思い返せば、もしかしたら高木春道に甘えたかったのかもしれない。勘当された身とはいえ、父の面倒を押しつけてきたに等しい兄には頼れない。縁が遠かった親戚も同様だ。そしてこの場にいる娘へ、弱い姿を見せたくなかった。
 その結果がこの有様だった。それでも高木春道は優しく受け止めて――はくれなかった。最初は和葉をなだめようと懸命だったが、いつまでたっても落ち着かないどころか、罵倒されまくりの挙句に向こうもキレてしまったのである。
 こんなつもりじゃなかったのに。心のどこかでは、そんなふうに思ってる和葉もいた。けれど、次から次にこみあげてくる激情の流れを、押しとどめるのは不可能だった。強くなるだけの罵り合い。醜すぎる展開を止めてくれたのは、愛娘の葉月だった。
 ――葉月、ママの子供じゃないって、知ってたもん。
 衝撃的な告白で、現場の空気が瞬時に凍りついた。口喧嘩をしてる場合などではなく、和葉も高木春道も、呆然として泣きじゃくる少女を見ていた。
 葉月はすべてを知っていた。和葉の不注意により、気づかない間に真実を知られてしまっていたのだ。ゆえに、高木春道が本当の父親でないことも理解していた。
 それでもなお父親を求めたのは、和葉が寂しそうにしていたから。後に葉月はそう語ってくれた。あの時の感動と喜びは、今でもはっきりと覚えている。公然と真実を共有したことで、母娘の絆は一層強くなった。
 予期せぬ事態が重なったはてに、またもよりベターな展開となった。ここまでは計算してなかっただろうが、高木春道の選択は、またしても正解といっても過言ではなかった。事ここに至って、和葉も初めて相手へ感謝をする。
 娘とともに和葉の父親の葬儀へ参加することになり、葉月の要望で高木春道も同席をすると決定した。一応は和葉の夫であるのだから、参加して褒められても、否定されたりはしない。
 けれど直前になって、高木春道の携帯へ電話が入り、和葉と葉月だけが先に参列することになった。冷静になれば、怪しむべき絶妙なタイミングである。母娘で心が通じ合えたと、浮かれすぎていた。それゆえに気づけなかった。
 葬儀も途中まで進行しても、同居男性はやってこない。電話が長引いているのだろう。和葉は単純にそう考えた。しかしそれが甘かったことに、すぐ気づかされる結果となる。 ようやくひと息ついた頃に、葉月が「パパ、遅いねー」と呟いたのだ。そこで和葉は初めて異変に気づいた。いくらなんでも遅すぎる。
 もしかしてあの電話は嘘で、高木春道はひとり帰ってしまったのではないか。この時点では推測にすぎなかったが、当たってる可能性は高いと判断した。
 外へ高木春道を探しにいった葉月が、うろたえてる声を聞いて確信に変わった。同時にもう会えないだろうなとも思った。真実を知った葉月が、それでも母親として和葉を受け入れたシーンを目撃している。
 頭の回転が速い男性だけに、自分の役どころはもう必要ないと判断しても、おかしくなかった。加えて、和葉が葉月と二人だけで生活したがっていたのを、相手は充分すぎるくらい承知している。
 仲の良い母娘を思いやって、自分から身を引こうと考えるのは、むしろ当然の流れのように思えた。だが、実は電話が長引いてるだけで、和葉の考えが間違ってるかもしれない。
 そこで和葉は、娘に高木春道の車を探してみるよう提案した。仮にお腹が痛いなどの理由でトイレにこもっていたとしても、付近にいるなら必ず乗ってきた車があるはずだ。二人して賢明に探すも、発見できないまま時間だけが悪戯に過ぎていく。
 事態に気づいた戸高泰宏の提案で、高木春道の携帯電話にコールしてみるも通じない。黙って姿を消して、連絡も取れなくなった。これが意味するのは決別であり、葉月が望む結果ではない。けれど相手が選んだ道ならば、和葉に反対する資格はない。
 急ぎの仕事が入ったのかもしれないという理由で無理やり葉月を納得させ、後でまた連絡をとると約束する。無駄だとわかってるだけに心苦しかったが、まだ戸家でやるべきことが残っている。途中で放棄するわけにはいかなかった。
 ひと段落したところで「パパから連絡があった」と娘に告げた。葉月は大喜びし、それなら安心とばかりに笑みを浮かべる。嘘だった。高木春道からの連絡は一切きていない。それでも不安を煽るよりはいいと判断した。
 その後に父親の遺書を見つけ、戸高泰宏との会話でわだかまりが解消する。父親の真意が少しだけわかったような気がして、抱いていた憎しみの感情が消えた。色々と得るものが多かった二度目の実家での日々は、こうして終わりを告げる。
 そして、それは新たな問題の始まりだった。帰宅した葉月を待っていたのは、予想どおりの無人の家だった。高木春道の部屋へ行くも、そこには何もなく、すでに家を出たあとだった。和葉には想定内でも、娘にとっては予想もしていない事態である。
 慌てふためき、今にも泣き出さんばかりの愛娘に、和葉は自分の嘘を詫びた。あとはどうやって別れを納得させるかだったが、結局最後まで説得はできなかった。それどころか、逆に娘に諭されてしまった。
 いなくなった無人の部屋を見て、和葉の心にはポッカリと穴が開いたようだった。いっそいなくなってくれればいい。正直、そう思った時期もある。けれど、こうして現実になると寂しくてたまらない。
 身体の触れ合いはなくても、いつの間にか心で触れ合っていた。単なる同居人で、諸般の事情から夫になってもらっただけ。そう認識していた男性へ、自分でも気づかないうちに心を許していたのだ。主の消えた部屋を見て、ようやくそれに気づいた。
 父親の件にしても、今回にしても気づくのが遅すぎる。後悔の念を募らせるだけで、諦めようとしていた和葉を、一喝したのが娘の葉月だったのである。
 みっともないかもしれない。恰好悪いかもしれない。しつこい女だと思われるかもしれない。それでも、和葉は諦められなかった。それなら、いっそ行動してみよう。強く決意をして、娘ともども高木春道の実家へ向かうことにした。
 だが和葉は普段、物事を理論的かつ冷静に考えて対処しようとするタイプである。根元が直情的な分、葉月を抱えて生きていくと決めた時に、それではいけないと身につけた処世術でもあった。
 感情に任せ、勢いだけで行動するのは、父親と決別することになったあの日以来だ。それだけに、高木春道の実家へ行くのはいいが、どうやって挨拶をすればいいのかわからない。下手な真似をして、悪印象を抱かれても困る。悩みは深まるだけだった。
 そうして辿り着いた高木家だったが、家族は留守で親切な隣人の方から「結婚式に出席している」と聞かされた。高木春道の嫁と認識してくれたようで、他人には教えないであろう情報まで知りえた。
 途中で結婚式用の衣装を購入し、葉月ともどもそれを着用して会場へ向かう。その途中で和葉は腹をくくっていた。正確には、高木家の隣人に、お嫁さんとして認知された時点で心を決めた。
 顔も知られ、高木春道の妻であると応じたのだから、和葉の存在はすぐに認知されていく。相手が多少躊躇おうとも、そこらへんを理由に家へ戻ってきてもらおうと考えたのだ。それで駄目なら、あとはその場の流れに任せるしかない。
 だが葉月も同行している以上、きちんと離婚してさようならという展開にはできないし、するつもりもなかった。相手に伝えるのは難しいかもしれないが、和葉は高木春道へ好意を抱いている。それだけは間違いなかった。
 目的の会場へ着くと、披露宴の案内がされており、迷ったりはしなかった。周囲を見渡し、ようやく高木春道の姿を視界に捉えた時、和葉思わず泣きそうになってしまった。どうしてこんなに嬉しいのだろう。理由は単純明快。好きだからに決まっている。
 娘と繋いでいる手に力をこめて、一歩ずつ和葉は相手との距離を縮めていく。踏み出す足と、高鳴る鼓動のリズムが同調する。まるで雲の道を歩いてるみたいな浮遊感。ここが現実空間なのかどうかさえ、わからなくなる。
 すぐ側まで近づいた和葉の耳に、深刻そうな高木春道の声が入ってきた。もしかしたら、家族に真実を告げるつもりなのかもしれない。そんな展開になったら、どう取り繕っても元の関係に戻るのは難しい。急いで割って入ろうとすると、ひとりの女性と目が合った。
 中年の女性は高木春道の正面に座っている。友人以外の親戚にかんしては、ほとんどひとテーブルにひと家族といったような割り振りになっている。
 その点を考慮すれば、女性はかなりの確率で高木春道の実母となる。どうすべきかと思ってる間に、相手から声をかけられた。その瞬間に笑顔を浮かべ、和葉は「春道さんの妻です」と自己紹介をしていたのだった。
 当時の高木春道の狼狽ぶりといったら凄かった。和葉が迎えに来るなんて、微塵も想定してなかったに違いない。慌てふためきながら、どこか嬉しそうな顔だった。目を閉じれば、今でもはっきり思い出せる。
 自己紹介も終わり、披露宴後には高木家へ宿泊することになった。幸いに葉月は高木春道の母親へなついており、相手もよくしてくれていた。本物の家族関係を構築していくためにも、誘いを無下に断りたくなかった。
 その夜は高木春道の部屋で、二人だけで眠ることになった。義理の母親となった女性が、わざわざ気を利かせてくれたのだ。普通に恋愛して結婚したと思ってるのだから、こうした気遣いも相手にとっては当たり前なのかもしれない。
 けれど生憎、和葉と高木春道の二人は慣れてなかった。それでも相手も自分に好意を抱いてくれてると知っただけに、嫌な気分にはならなかった。自然な流れで肌を重ね――そうにはなったものの、突然の乱入者により未遂で終わる。
 それでも有意義な夜だった。何故なら、初めて家族三人川の字になって眠ったのである。幸せそうな葉月の寝顔を見て、人生で一番の幸せを感じた。高木春道も娘も、二人とも宝物のような存在になっていた。
 自宅に戻ったあと、和葉と葉月は揃って松島から高木姓になった。他の家庭と変わらない関係になったのだから、そうするのが当然だと思ったのだ。後悔なんかはまったくしていない。
 しかし人の心は贅沢なもので、常に望むべき台詞や態度を貰ってないと、段々不安になってくる。相手を想えば想うほど、その傾向が強くなってくるのだから不思議だった。そのせいで、小石川祐子につけいる隙を与えてしまった。
 もっとも一度振られておきながら、あそこまで執着するとは夢にも思っていなかった。ひょっとしたら、子供の頃から他人の物を欲しがるようなタイプだったのではないだろうか。嫌な思いもしたが、その件のおかげでさらに夫婦間の絆は強まった。
 中学・高校と一緒だった親友から、働いてるファミレスで、和葉の旦那と浮気女が密会してるとメールが来た時は心臓が止まりそうになった。同性の友人には高木春道と一緒の写真を見せており、顔を知っていたのである。
 そうした理由から、ファミレスでの一件は逐一メールで報告を受けていた。最後までなびかなかった高木春道には、友人も感心したようで和葉が羨ましいとも書かれていた。誇らしくなると同時に、今度は友人がちょっかいを出すのではないかと心配にもなった。
 高木春道が迎えに来てくれるのは、これまでの理由から大体わかっていた。それでも実際にその姿を見た時は、涙が出そうになるぐらい嬉しかった。本当はすぐに許してあげるつもりだったのに、ついつい欲がでてしまう。
 きちんとした愛の言葉がほしかった。友人がこれを知れば、いい歳してと言ってきそうだが関係ない。初めてこんなに好きになった人だからこそ、和葉も求めた。
「ママはパパにらぶらぶなんだねー」
 話を聞き終えた葉月は、とても嬉しそうにそんな台詞を口にした。家族愛を求めるだけに、両親と認めた和葉と高木春道が、仲良くしてるのを見るだけで楽しいのだろう。
「そうね。ママはパパにラブラブよ」
 ――ガタガタンっ! 台詞の直後に、リビングと廊下を繋いでいるドア向こうから嫌な音がした。誰かが確実にそこへいる。椅子から立ち上がった和葉は、ツカツカと歩み寄ってドアを開けた。
 急いで立ち去ろうとしたが、間に合いませんでした。そんな空気をプンプン出している高木春道がそこへいた。罰の悪そうな顔で右手を上げ、わざとらしく挨拶をしてくる。
「よ、よお……」
「……どこからですか?」
「な、何のことだ?」
 あくまでトボけようとする夫の目を、正面からじーっと見つめる。高木春道はすぐに和葉から視線を逸らす。葉月との会話を、ほとんど聞いてましたと言わんばかりの態度だ。そうなると、当然最後の告白に等しい言葉も聞かれたことになる。
 気恥ずかしさから顔が熱くなり、それを誤魔化すためにも和葉は娘を見る。
「葉月……まさかパパと共謀して、ママにこんな話をさせたわけではないわよね」
「ち、違うもん。は、葉月は――」
「葉月はパパを裏切ったりしないだろ。素直で優しい子だもんな」
「あーっ! パパ、ずるい。そんなこと言ったら、葉月のせいになっちゃうよ」
 今の反応で、どちらが嘘をついてるかは明らかだったが、別に追求するつもりもなかった。軽くため息をつき、椅子に座りなおして、ぎゃいぎゃいと言い合っている父娘を眺める。どちらにも当初みたいな遠慮はなくなり、実に親子らしい関係を築いている。
 こうした光景を見てるだけで心が温かくなり、とても幸せだと実感する。不思議な縁で家族になったけれど、これからもその縁をずっと大切にしていきたい。宝物となった家族を見つめつつ、和葉は強く思うのだった。


面白かったら一言感想頂けると嬉しいです。



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