愛すべき不思議な家族 25

「お疲れ様でした」
  陣取っていた場所に戻るなり、松島和葉はわざわざ立ち上がって春道を出迎えてくれた。短距離走は想像以上に疲れたが、こんなふうに美人な女性に労をねぎらってもらって悪い気はしない。
  奇妙な縁で知り合ったとはいえ、一応は目の前の女性と春道は夫婦なのである。
「……座らないのですか」
  立ったままボーっとしてる春道を、松島和葉が訝しげに見つめてくる。想像世界から不意に現実へ引き戻され、必要以上にうろたえてしまう。半分声を裏返させながら「何でもない」と答えておく。
  すぐにビニールシートへ座ると、春道に倣って和葉も再び腰を下ろした。
  何気に違和感を感じて周囲を見渡すと、慌てて目を逸らす中年男性の姿が複数発見できた。もちろん春道に興味を持ったわけではなく、彼らのお目当ては隣にいる松島和葉で間違いない。それだけの美貌なのである。
  運動会当初から覚えていた違和感みたいなものは、児童たちの父親連中からのやっかみの視線だったのだ。
  自分たちにも好きで結婚した奥さんがいるだろうに。そんな感想を抱きながらも、春道はどこか得意げな気分になるのだった。

 午後の競技が佳境にさしかかりだした頃、スックと松島和葉がいきなり立ち上がった。
「少し行ってきます」
  何事かと戸惑っていると、松島和葉はそう告げてきた。恐らくはトイレだろうと判断し、春道は「わかった」とだけ返した。
  それから結構な時間が経過しても、松島和葉は戻ってこない。思わず下世話な推測をしてしまうが、相手に失礼だと浮かんだ考えを頭を左右に振って放棄する。
  お弁当も満足に食べて、体力もある程度回復している。だが近日中に筋肉痛になるのは、ほぼ決定してるも同然だ。どうせ避けられないのなら明日にでもなってほしい。明後日以降だと嫌でも老化を思い知らされる。
  毎日こまめに運動でもしようかなと、満腹感でまったりしつつも考える。健康のためにもなるし、一石二鳥だ。
「ぱぁーぱぁー!」
  怒声ともとれる叫びが、春道の耳に飛び込んできた。完全に不意突かれた形になり、普段の倍ぐらいの勢いで驚く。
  考え事を強制中断させられた春道は、声の主を探す。誰が呼んだかはすでにわかっている。わからないのはどこにいるかだ。
  こっちこっちと呼ばれた方を見ると、そこには互いの足首をタオルで縛った松島母娘の姿があった。
  他にも同様の格好をした児童と保護者のコンビが多数おり、これからどんな競技が行われるかは容易く想像がつく。母親と娘の二人三脚だ。
  列に並んでる女性チームの後ろには、男子児童と父親による二人三脚のコンビが控えていた。どうやら性別で組み分けをしているらしい。
  この種目もそれほど参加人数は多くなく、各クラスから男女五名ずつといった程度だ。松島葉月の性格から察するに、恐らくこの競技も立候補したに違いない。
  初めて両親が揃って参加してくれる運動会だけに、はりきりたいのかもしれない。もっとも、ただの運動好きなんて可能性も考えられる。どちらにせよ、運動会は児童たちが主役であり、その中のひとりである少女が楽しんでいるのなら問題はない。
  あっという間に松島母娘の順番になり、同じ学級や同学年の女性チームとスタートラインに並ぶ。なんとしても活躍したい松島葉月は、見るからに力が入っている。
  担当教師による合図で、各自まずは最初の一歩を踏み出す。二人三脚は、走り出してしまえば意外とそのままの勢いでゴールまで行けるため、スタート直後が肝心だった。
  それがわかっているらしく、松島和葉は前に出たがる娘を絶妙にコントロールしつつ、慎重かつ順調な滑り出しとなった。
  逆にスタートダッシュを狙ったペアは、意図に反して見事にコース上で転んでしまう。まだ年齢が低い女子だけに、泣きそうになる児童も存在していた。
  そんな中、松島葉月と和葉の母娘はゴール地点目指して一直線に突き進んでいる。このままいくと、トップも現実味を帯びてくる。決して熱血タイプではないのに、何故か観戦にも力が入ってしまう。
  二人三脚が途中まで進んだ頃、不意に春道は誰かに肩を叩かれた。ビックリして振り返ると、そこにいたのは松島葉月の担任である女教師だった。
「少しお話があるんですけれど、お時間いただいてよろしいですか」
  まさか、また葉月がいじめられたりしてるのだろうか。しかし少女にそういった様子は見受けられないし、あえて春道に隠してるとも考えにくい。
  とにかく担任教師を邪険にしたりもできないので、春道は頷いて相手の要求に応じる。
  松島母娘は二人三脚に熱中してるため、こちらに気づいてない。競技中に声をかけるわけにもいかないし、仕方ないので黙って春道はこの場を一時離れることにした。

 運動会が行われてるグラウンドと対極に位置する校庭まで来たところで、ようやく前を歩いていた女教師が足を止めた。
「自己紹介がまだでしたね。私は小石川祐子と言います」
「……高木春道です」
  周囲を見渡しても、活気溢れる場所とはとても思えない。こんな人気のない場所でする話なのだから、さぞや重要な案件なのだろう。そう身構えていたのに、女教師の第一声は自己紹介だった。
  これから本題に入るに違いない。きちんと話を聞くために集中してるのに、どうしたのか小石川と名乗った女担任は一向に口を開こうとしない。それほどまでに言い辛いとは、一体どんな問題が発生してるのか。
「葉月ちゃんのお父様は……その、失礼ですが、名字が違うんですね」
  春道は思わず「はぁ!?」と叫ぶところだった。緊張して身構えていたところに、先ほどの発言である。もしかして、当たり障りのない会話から始めて、後々に本題へ突入しようという意図なのだろうか。だとしたら、付き合っておいた方がいい。
「昔から夫婦別姓にしてましたからね。別に他意はありませんよ」
  柄ではないが、愛想笑いを浮かべながら女教師の問いかけに答えていく。重要な話題に移るのを緊張して待ちながら、春道は頭の片隅で二人三脚の結果はどうなっただろうなんて考えるのだった。

「あれー……パパ、いないよー」
  一等賞になった商品のボールペンを、パパに早く見せたいとせがむ娘と一緒に松島和葉は保護者の控え場所まで戻ってきていた。
  和葉が準備したビニールシートや昼食が入ったバスケットはそのままに、高木春道の姿だけが見えなくなっているのだ。
  競技に参加する前はもちろん、二人三脚の途中で横目で確認した時も確かにひとりで座っていた。じっくり観察したわけでもないが、変わった様子も別段見受けられなかった。
「お手洗いに行ったのではないかしら」
  考えられるのはその程度しかなかった。和葉の言葉を聞いた葉月は、曇らせていた表情をパッと晴天に変える。
「そっか。それならすぐに戻ってくるよね」
  にこにこしながら同意を求めてくる娘に、和葉もまた微笑みながら「そうね」と応じる。
  それにしてもと和葉は思った。いくら葉月が人懐っこくて、父親の存在を熱望してたとはいえ、まさか高木春道が娘からここまで好かれるようになるとはまったく想定してなかった。
  いつ終焉を迎えるかわからない夫婦関係だけに、最初はあまり葉月と深く関わらせるつもりはなかった。幸いにして相手も子供に興味はなさそうだったし、冷たいかもしれないが、そうすることで娘が心にダメージを負う危険性を少しでも減らせると判断した。
  しかし葉月のいじめ問題発覚を契機に、その方針はあっさりと崩れ去ってしまう。見事なまでに解決して見せた高木春道に、娘はこの上ないほどに傾倒した。
  このままでは危険だと判断し、二人の仲を引き離そうと試みたものの、愛する葉月からの反感を買っただけ。逆に和葉と娘の関係が、一時的にせよ危うくなってしまった。
  どうしたらいいのかわからなくなっていた矢先に、勘当されていた実家に戻るはめになったのである。そこで実兄の戸高泰宏が、高木春道に和葉と葉月の関係を暴露してしまう。
  しかし高木春道はあれこれ詮索しようとはせず、口だしもしてこなかった。まるで和葉の思惑があるから、己はいらぬ口を挟むべきではない。そう言ってるようだった。
  本音はどうか知らないが、相手の対応は実際ありがたかった。意図せずに内情の一部を知ったからといって、すべてを説明する義理も責任もない。けれど、事実を葉月に教えると脅されれば、和葉は高木春道の要求にひとつの例外もなく応じたに違いない。
  単純に思いつかなかっただけかもしれないが、それでもそんな悪質な真似をするタイプの人間でないことは確かだ。そう判断した和葉は、ある程度高木春道を信用して付き合っていこうと決めた。
  異質な夫婦関係であっても、交わした約束が有効である限り夫婦である事実に変わりはない。それならば、少しでも娘が喜ぶ方向へ行こうとシフトチェンジしたのだ。
「パパ、遅いね……」
  葉月の言葉で和葉は我に返る。考え事をしていたので気づかなかったが、トイレにしては時間がかかりすぎてる気もする。かといって、わざわざ探索する気にはなれない。お腹の調子を崩して、トイレにこもっている可能性も否定できないからだ。
  とりあえず、もう少し待つべきだと思ったが、葉月は早く高木春道に二人三脚で一位になった自慢をしたくて仕方ないようである。
  ほとんど制約のない保護者と違って、学校に所属している葉月は定められている規則に従わなければならない。新たな種目が始まれば、クラスの待機場所へ戻る必要がある。
「わかったわ。ママが少し探してくるから、葉月はここで待っていなさい」
  放っておけば今にも「探しに行ってくる」と言い出しそうな娘の機先を制して、和葉は自らそう切り出した。
「うんっ! 葉月、ここで待ってるね」
  しょげそうになっていたのが嘘みたいに、明るい口調で葉月が応じる。勤め先では冷静沈着な女性として通ってる和葉も、この笑顔だけには弱かった。
  周囲には他の大人たちも多数いるので、ひとりで残しておいても心配はない。和葉はもう一度娘を見たあとで、ビニールシートから立ち上がる。
  探すと告げて出発したまではいいものの、当てなど何ひとつない。適当に歩いたところで見つかるはずもなく、諦めかけていると葉月と同じ学級にいる児童の母親と遭遇した。
  都合がつけば保護者同士の会合に参加していたので、その女性とも面識はあった。話好きと評判になってるだけあって、ひとりで歩いていた和葉にすぐさま声をかけてくる。
「娘から聞いてたけど、松島さんの旦那さんって結構男前なのねぇ。うちの人とはえらい違いだわ」
  そうした目で高木春道を見たりしてなかったので、和葉は「そうですか」としか答えようがない。自宅でもほとんど見かけたりせず、和葉が部屋を訪ねた時には、大抵セットされてないボサボサ髪で目元まで隠れてるので容姿の良し悪しなど判別がつかなかったのだ。
  もっとも和葉自身がそうした色眼鏡で見られるのを嫌うので、誰が相手でも外見をどうこう言ったりはしないし、応対の仕方を変えたりもしない。そうした態度が気取ってると、学生時代に一部の女生徒から反感を食ったりもしたが昔の話である。
「でも気苦労が絶えなさそうよね。さっきも担任の女の先生と二人きりで歩いてたわよ。あれはきっと人気のない校庭へ向かってたのね。何をするつもりなのかしら」
  悪戯っぽい笑みを浮かべて、顔見知りの他児童の母親がそんな台詞を口にしてきた。親切心で教えたわけではなく、面白がってるのは明らかだった。
  普通の奥さんなら怒るところなのかもしれないが、和葉と春道の夫婦関係はおよそ常人には共感できないぐらいの異質なものだ。好意で結ばれてるわけでもないので、そんな話を聞いても嫉妬したりしない。
「そうですか。ありがとうございます」
  和葉が何ひとつ変わらぬ表情でお礼を言うと、相手は拍子抜けしたような感じで「え、ええ……」と戸惑い気味に応じた。
  その後は言葉を発するでもなく、そそくさと立ち去っていった。恐らくは仲の良い他の母親に、このことを言いふらしてまわるつもりなのだろう。
  勝手にすればいい。先ほどの女性にはそれで済むが、高木春道に関しては一応探しておくべきだと判する。ジェラシーどうのこうのではなく、もしかしたら娘の葉月についての話し合いをしてる可能性もあるからだ。
  人気のない校庭へ向かっていたのではないか。そういう情報を手に入れたので、とりあえずはそちらへ行ってみることにする。それでいなかったら、諦めて葉月が待ってる場所へ戻ればいいのだ。
  この小学校は結構敷地が広く、同じ校庭といってもまったく手入れされてない林のようなところも存在する。なるほど。確かに密談などをするには丁度いい。
  そんな感想を抱きつつ、目に見える範囲だけを捜索していく。すると、程なくして高木春道と女担任の姿を発見できた。
  他人の会話に、ズケズケと入り込んでいくのはさすがに気が引ける。ひとまずは様子見をするべきかもしれない。そう思った和葉の耳に、葉月の担任である女教師の驚くべき言葉が風に乗って届いてきた。
「私……貴方のことが好きになっちゃったみたいなんです」



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