愛すべき不思議な家族 27
突如、飛んできた聞きなれた声に高木春道は驚きを隠せなかった。小石川祐子と名乗った女教師と自分以外には誰もいないと思っていたのだ。
声の主は予想どおりに松島葉月の母親である和葉だった。一体いつの間に来ていたのか、春道の心臓がバクバクと鳴りだす。前方にいる女担任に、松島葉月との血の繋がりを指摘されたシーンよりも何故か緊張してしまう。
ツカツカと歩み寄ってきた松島和葉が、真正面から小石川祐子と向き合った。
「貴女みたいな方に誘惑されるほど、彼は頭が悪くありません。それより運動会の最中にこんな場所へいていいのですか。職務怠慢ですよ」
「ち、違いますよ。これは松島さんの旦那さんが、私を無理やり誘いだして――」
「そうなのですか。先ほどの会話だと、貴女が彼を脅してたように聞こえましたけれど、私の気のせいだったようですね」
淡々と反論する松島和葉の前に、次第に女教師は何も言えなくなっていく。それにしても、いつからこの場にいたのかが春道にとっては多分に気になる点だった。
基本的に松島和葉は美人だが、どこか冷たい印象も受ける。そんな女性が押し殺した声と真顔で会話してるのだ。相手へ与えるプレッシャーは生半可なものではない。女担任に同情する余地はないが、和葉の会社の部下には多少同情する。
「し、失礼しますっ!」
しばらく継続された無言かつ恐怖の見つめあいは、小石川祐子の逃走という形で決着がついた。バタバタと走り去っていく姿を、春道は松島和葉と一緒に眺める。
「……どうして応じなかったのですか」
顔の位置を変えずに、松島和葉が尋ねてきた。最初は質問の意味がわからなかったものの、すぐに女教師との一件だと気づいた。
応じる、応じないなんて言葉が出るくらいなのだから、小石川祐子に告白された時にはすでに松島和葉はこの場へ到着していたのだ。
それはつまり、告白を断った際に春道が発した台詞をも聞かれていたということになる。急に気恥ずかしさがこみ上げてきて、相手の顔がまともに見れなかった。
「確かに葉月の父親になってほしいとお願いはしました。けれど、恋愛関係まで束縛した覚えはありません。貴方にその気があるのなら、自由にしていただいて結構です」
小石川祐子と会話してた時同様に、感情のこもってない声で告げられる。こうして聞いてると、春道を嫌ってるのではないかとさえ思えてくる。
「なかなか可愛い女性だと思いましたけれど、あんなにあっさりと袖にしてしまってよろしかったのですか」
改めて言われると、多少惜しい気がしないでもない。しかし、再度告白されても春道の返事は変わらない。
「可愛ければ誰でもいいってわけでもない。それにそこまで言うんなら、何であの女教師とわざわざ言い争いまでしたんだよ」
「……先ほどのケースでは、ああするより他になかったからです。世間一般の夫婦はパートナーの浮気を阻止しようとするのが普通でしょうから、該当する常識に従って行動しました。他に質問はありますか」
これではまるで教師と生徒である。小石川祐子より、松島和葉の方が教職に相応しく感じる受け答えだった。
「……ならお言葉に甘えて、もうひとつ質問させてもらう」
「何でしょうか」
「どうして、アンタがここにいるんだ」
松島葉月が所属するクラスの担任である女教師に連れ出され、春道は誰にも言わずにこの場所までやってきている。要するに、自発的に探そうとしない限り、高い確率でこの場所を見つけるのは不可能だ。
「二人三脚で一位になった賞品を見せようと、葉月が保護者の観覧場所まで来たのです。ところが肝心の人物の姿が見えませんので、娘に代わって私が探すことになりました」
説明に不自然なところは何もない。それに松島葉月の性格を考えると、実に納得できる理由だった。娘が関与してなければ、松島和葉が春道を探して歩き回るなんてほとんどありえない。
「ならさっさと戻るか。今頃はムクれてるだろうしな」
――パパは、どうして葉月の活躍を最後まで見てなかったのー。唇を尖らせて抗議してくる少女の姿が頭の中に思い浮かんできた。
思わず笑みを漏らした春道を見てたかどうかは不明だが、松島和葉は先にひとりでスタスタと歩き出していた。目的地は言わずもがなだ。
誰もいなくなれば、こんな薄気味の悪い場所に用はない。春道も足早に前を歩く女性の背中を追いかけるのだった。
「パパは、どうして葉月の活躍を最後まで見てなかったのー」
松島和葉から遅れること数秒。ビニールシートが敷いてある場所まで戻った春道を待っていたのは、予想どおりの台詞とふくれっ面だった。
「わかりやすくていいな、お前は」
あまりの的中率の高さに、春道はたまらず吹きだしてしまった。松島葉月にとっては、予想外の行動だったのだろう。怒っていた顔がキョトンとする。
「何で、葉月が怒ってるのに笑うのー」
春道が笑ったからか、少女もまた文句を言いながらも笑いだす。
ふと気になって、チラリと横目で松島和葉を見れば、口元は笑顔の形を作っているものの、どこか寂しげな雰囲気だった。
「あ、呼ばれたから、行ってくるねー」
そう言うと葉月は立ち上がり、自らのクラスの待機場所まで走っていく。つい先ほど拡声機を使って、教師のひとりが児童たちに集合するよう告げたのだ。
春道が席をはずしてる間に二人三脚どころか、最終競技の児童たちによるクラス対抗リレーも終了してしまっていたようだった。予定されていたプログラムをすべて消化したので、残りは閉会式だけである。
「……シートを片付けますが、よろしいですか」
松島和葉から聞かれ、周囲の様子を窺うと他の保護者たちも帰り支度を始めだしていた。肯定の返事をした後で、春道は急いでビニールシートから退けた。
「帰りはどうするんだ」
「葉月たちは会場の後片付けをしたあと、一度学級に戻って先生からのお話を聞くみたいです」
運動会の最中にあんな一件があっただけに、真っ先に小石川祐子の顔が思い出されてしまう。それがわかったのか、手際よく後片付けをしていた松島和葉がボソリと呟いた。
「……春道さんも参加してきますか」
「勘弁してくれ」
迷わず春道はそう口にしていた。子供じみた女教師との会話のシーンが、脳裏に蘇ってくるだけで頭が痛くなる。これ以上の厄介ごとは心の底からごめんだった。
「そうですか。私は葉月を待ってますので、どうぞ先にお帰りになってください」
少し考えたのち、春道は「わかった」と返事をした。先に帰れと言われてるし、逆らってまで一緒に帰りたいとは思わない。何より小石川祐子と遭遇する事態を避けたかった。
もしかしたら松島和葉もその点を心配して、春道に帰宅を促してくれたのかもしれない。
「なら荷物は一緒に持って帰っておくぞ。運動会で疲れてるのに、余計な労力を使う必要はないだろ」
「……そうですね。お願いします」
これぐらいは平気ですと言われそうな気もしていたが、松島和葉は素直に春道の言葉に従った。料理がすべて平らげられたバスケットと一緒に、ビニールシートなどが入っているリュックサックなどを手渡してくる。
それらを受け取った後で、春道はひとり駐車場へ向かって歩き出すのだった。
いつもより早い時間に銭湯へ行き、運動会の疲れを癒してから春道は私室でゆったりとしていた。
すでに時刻は夜になっており、夕食はとっくに済ませてしまっている。あとは何をするも自由なのだが、日中に体を動かしたせいか仕事だけはする気になれなかった。
そんな春道の私室のドアがトントンとノックされた。ボーっとしてたせいか、今回は近寄ってくる足音にまるで気がつかなかった。想像以上に疲れてるんだなと思いつつも、春道は来訪者に「どうぞ」と告げる。
室内へ入ってきたのは、松島和葉だった。一緒に葉月の運動会へ参加しただけに、向こうもまた疲れが残ってるような顔をしている。
律儀な性格をしてる女性だけに、荷物を持ち帰ったお礼でも言いにきたのだろう。別段そんなのは必要ないのだが、素直に受け取っておくにこしたことはない。だが相手の言葉は春道の予想とはまったく違っていた。
「実は急に泊まりの出張が明日から入ってしまいまして……申し訳ないのですが私の不在期間中、娘の――葉月の世話をお願いできないでしょうか」
役職を預かってる身なのだから、出張はあって当然で別に不思議はない。むしろ今日まで、そういった話がでてなかったのが不思議なくらいだ。
「それは構わないが、どれぐらいの日数を予定してるんだ」
「そうですね……それは、まだ何とも言えません。先方との交渉が長引けば予定をオーバーするかもしれませんし、スムーズに運べば前倒しもありえます」
まったくの正論だが、春道は和葉の言動にわずかな違和感を覚えていた。どこがと言われても指摘はできてないが、とにかく何かもやもやしたものが残る。
口調はいつもの松島和葉と一緒だし、表情も多少の疲労を除けば、特に不審な点は見当たらない。恐らくは春道の考えすぎだろう。多少強引な感がしないでもないが、とりあえずはそれで納得しておく。
「ふむ。ま、明日から数日と考えておけばいいんだな」
「はい……あ、いいえ。今夜からです」
「今夜!? まさか徒歩でいける距離への出張なんて言わないだろうな」
都会と違って、春道や松島母娘が居住しているこの田舎町は、交通機関はほとんど発達していない。夜も午後九時を過ぎれば、電車なんてほとんどなくなる。バスはもっと早い。かろうじて機能してるのは、数少ないタクシー程度だ。
「急いで駅へ向かえば、ギリギリで間に合う電車がありますので、それに乗ろうと考えています」
松島和葉が最初に説明した明日というのは、交渉を開始する日だったのだ。確かに今夜中に出発できれば、それだけ仕事も早く始められる。しかし運動会に参加した日ぐらいは、せめてゆっくり休んでも――。
――待てよ。春道はふと考え方を変えてみる。早く出張を済ませれば、それだけトータルで家を空ける日数は少なくなる。和葉なりの計算に基づいた計画なのかもしれない。だとしたら、反対する必要はなかった。
「わかった。それにしても大変だな」
「……いいえ。それより、不在の間は食事を用意できなくなってしまいます。交渉を持ちかけた立場でありながら、身勝手だと重々承知してますがどうかご助力をお願いいたします」
そう言うと、松島和葉は超がつくほど丁寧に春道へ頭を下げてきた。厳密に言えば契約違反になるのは間違いないが、これまでも充分に世話をしてもらっている。多少は仕方ないどころか、別に問題はない。
その旨を告げた春道にもう一度しっかりしたお礼を口にしてから、忙しなく松島和葉が退室していく。よほど急いでいたのか、会話をしてる間もずっと立っていたのだ。
それからほどなくして、玄関のドアが開閉される音が春道の耳にまで届いてきた。普段が冷静沈着な松島和葉にしては珍しく、とても慌ててるようだった。
会社勤め――しかも余計な肩書きを持つと大変だな。他人事ながらに春道がそんな感想を抱いていると、またもや気づかないうちに私室のドアがノックされたのだった。
面白かったら一言感想頂けると嬉しいです。
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