愛すべき不思議な家族 28

 先ほど松島和葉に対応した時同様に「どうぞ」と室内へ入るよう促す。両手でドアノブを回し、扉をゆっくりと開いたのはもちろん松島葉月だった。
  日中の運動会であれだけはしゃいでただけに疲れてグッタリしてるかと思いきや、そんな様子は微塵もなかった。もしかしたら、春道より体力はあるかもしれない。
  松島和葉の出張で、数日間とはいえ二人で生活しなければならない。恐らくはそのことについての話だろう。
「ママがいない間、パパのご飯は葉月が作ってあげるねー」
  展開はほぼ予想どおりだったが、台詞の内容はまったく違っていた。そんな提案をされるとは微塵も想定してなかっただけに、春道は思わず「なんだって?」と口にしていた。
「だからー。パパのご飯を葉月が作るのー」
  そう言うと松島葉月は、何故か腕まくりをした後で小さな力こぶを作ってみせる。……いや、正確には作る仕草をしたと言った方が正しい。女児の小さな腕には、まだ筋肉と呼べるものは存在してなかったからだ。
「……お前、料理作れたのか」
  いつもは母親である和葉が料理してくれていたので、その辺の実情にかんしては全然知らない。松島母娘は仲が良いので、一緒に料理を楽しんでいたりしても不思議じゃない。要するに葉月が料理できても、それほど驚くべき事実ではないということだ。
「わかんなーい」
  能天気かつ意味不明な返事が春道の耳を直撃する。これもまた頭の片隅にもなかった台詞だった。
「だってー。葉月ひとりで料理したことないんだもん」
「ひとりでってことは、ママと一緒に料理した経験はあるのか」
「うんー。おいもさん洗ったり、お皿をテーブルに並べたりするのー」
  それは料理と言わねえよ。喉元までこみあがってきた言葉を、なんとかギリギリのところで呑みこんだ。ツッコみを入れるよりも先に、確認しなければいけない点がある。
「お前……包丁持ったことあるか?」
「ないよー。ママが危ないからまだ駄目って、持たせてくれないのー」
「……頼むから無理はするな」
  張り切るのはおおいに結構だが、勝手に料理をされて怪我でもしたら、松島和葉が戻ってきた時にどれほど叱られるかわかったものじゃない。
「もー。パパまで葉月を子供扱いしちゃ駄目ー。もう立派な大人なんだからー」
  春道の心配も知らずに、母親不在の間に活躍を虎視眈々と狙う女児は出鼻を挫かれて早速むくれてしまう。
  だからといって「それじゃ、お任せしようかな」とは間違っても言えない。ここは少女に諦めてもらうより他はなかった。とりあえず話題を変えるべく、春道はいつも和葉出張の際はどうしてるのか尋ねる。
「わかんなーい」
  ほんの少し前に聞いたのと、まったく同じ言葉が少女の口から吐き出された。それを聞いた春道は、思わず体勢を崩して床に倒れこみそうになってしまった。
「わかんないって、何でだよ」
「だって、ママのしゅっちょう? って初めてなんだもん」
「初めて!?」
  驚いて春道は少女に聞き返す。再度葉月が肯定の返事をしたことから、どうやら聞き間違いではなかったみたいである。
  確かに考えてみれば納得もできる。あれだけ娘を溺愛している松島和葉が、いかに仕事とはいえ、自宅に葉月をひとり残して何日も家を留守にするわけがない。だからこそ、これまで出張してこなかったのだろう。
  だとすれば変だ。顎に手を当てて春道は考える。和葉がずっと役職を会社から与えられていた事実からすれば、恐らく出張しなくてもいい勤務契約になっていたに違いない。
  それとも春道がいるので、安心して家を空けられるようになったとでもいうのだろうか。――いや、それはない。頭の中で浮かんだ理由は即座に否定された。
  確かに出会った当初よりは信頼してくれてる感はあるものの、それでも娘の葉月に比べれば、和葉の対応はしっかりと一線を画している。そんな春道に、大事な愛娘を好んで何日も預けるなんて実に想像しにくい。
  しかしながら、現実ではすでに松島和葉は出張に出発している。もしかしたらわざと出張のふりをしておいて、春道が変な真似をしないか試そうとしてるのだろうか。……違うな。またもや春道は自身の結論を瞬時に却下する。
  大事な娘を餌にするような真似を、あの松島和葉がするはずがない。単純に出張に行っただけの可能性もあるが、それだとどうも納得がいかない。単に春道の性格がひねくれてるせいなのかもしれない。けれど、どうもしっくりこないのだ。
  となると別の理由になる。つまりは春道に娘を預けてでも、家を空けなければならない理由ができた――。
  そこまで考えた瞬間に春道はハッとした。まさかとは思いつつも、もしそうであるならば和葉の行動にも納得がいくのだ。
「ねえ、パパってばー」
  ふと呼ばれてることに気づいて、少女を見ると例のごとく唇を尖らせていた。どうやら何度となく、春道を呼んでいたみたいだ。
「悪い。どうかしたか」
「晩御飯は葉月特製のスペシャルカレーにするのー」
  相談もなしに、少女の中ではすでに決定事項となってるようだった。怖いもの見たさで、スペシャルカレーをオーダーしてみたい気もするが、春道の想像どおりならそれどころではない。
「葉月が嫌じゃなければ、今夜は外食にしないか?」
  春道がそう提案すると、松島葉月は顔を輝かせて笑みを作った。どうやら反対意見はないようで、どこへ行くかも聞かずに「じゃあ、準備してくるねー」と、超特急で春道の私室から退出していくのだった。

 すっかり夜のカーテンに包まれた街中を、春道が運転する車が走り抜けていく。助手席には、お出かけ用の洋服に着替えた松島葉月が座っていた。
「それにしても、パパって黒い色が大好きだよねー」
  確かに黒は好きだが、何がなんでもその色でなければいけないというわけではない。基本的に黒だと汚れが目立ちにくいのではないかと考えて、ひとり暮らしを始めた頃から好むようになってきたのだ。
  何故、松島葉月がそんな台詞を発したかといえば、きちんとした理由がある。家を出かける前に洋服のコーディネートについてアドバイスを求められた春道は、迷わずに基本色が黒の服を指定したのだ。
  少女にとっても気に入ってる洋服の一着であったらしく、春道のリクエストに素直に頷いてくれて現在は可愛らしい黒のワンピースを身に纏っている。靴ももちろん黒だ。
「ところでどこにご飯を食べに行くのー」
「……詳しく考えてなかったな。葉月はどこがいい? 好きなとこでいいぞ」
「それならねー。ファミレスがいいー」
  田舎町にもファミレスはある。もっとも居住地の近所ではなく、それなりに離れた場所だ。しかも近隣にはその一店舗だけなので、それなりに混んでたりする。
  色々なメニューがあるので、田舎町から出た経験のない子供たちには珍しくもあり、楽しくもあるのだろう。聞くところによれば、たいていが小さな子供をつれた家族で店内は賑わってるらしかった。
  春道は該当の店に入ったことはない。どう考えても男ひとりで、食欲を満たしに行くような店だとは思えなかったからだ。店側からすればどんな客でも大歓迎なのだろうが、普通の定食屋と違って気軽に入店できなかった。
  だが今夜に限っては、戸籍上もきちんと娘である松島葉月が同行している。間違っても香気の視線で注目される事態にはならない。
  まずは腹ごしらえをしてからだな。長くなるであろう今夜から明日に備えて、とりあえず空腹を満たすべく春道は一路、松島葉月が指定したファミリーレストランへと向かうのだった。

「おいしかったねー」
  女児ながらもハンバーグ定食をぺろりと食べ、デザートにチョコレートケーキまで平らげた松島葉月が大満足した様子で駐車場に止めてある春道の車に乗り込んだ。
  運動会の昼休みに食事を一緒にした際も思ったが、あの小さな身体によくあれだけ入るものだと半ば感心する。春道はパスタのミートソースとグラタンを食べた。ファミレスなんて久しぶりだったが、以前よりも美味しくなってる気がした。
  運転席に乗った春道が車のエンジンをかけると、隣にいる松島葉月がそわそわと身体を右に左に小さく揺らしている。
  トイレを我慢してるわけではない。何故そんなことがわかるかといえば、退店する際にトイレはファミレス内で済ませておけと春道が指示しておいたからである。
  少女が落ち着かない理由については心当たりがあった。このぐらいの年齢では、夜に外出する機会なんて滅多にないので、冒険に来たぐらいの感覚でワクワクしてるのだ。
「どっかで遊んで帰りたいんだろ」
  春道がそう言うと、待ってましたとばかりに松島葉月がにぱっと笑う。やはりどこかに寄り道したがっていたのだ。けれどそれをなかなか自分から言い出せなくて、挙動不審ぎみな態度になってしまっていたのである。
「なら、ドライブでもするか」
「うんっ」
  春道の提案に、松島葉月は大喜びで返事をする。さらに笑顔を輝かせながら「どこに行くのー」と尋ねてきた。
「……少し遠くまで行こうかと思ってる」
「葉月なら大丈夫だよー。明日、学校お休みだしー」
「そうなのか」
  問いかける春道に、少女は再度「うんっ」と元気に返事をして頷く。
  松島葉月の小学校では毎年、創立記念日に運動会を開催しているらしい。その振り替え休日として翌日は休みになるという話だ。
  その小学校しか知らない葉月にとっては当たり前なのだろうが、春道からすればどことなく不思議に思う。そんな真似をしなくても、普通に創立記念日を休日にすればいいように感じてしまうのだ。
  ちなみに春道が子供の頃通っていた小学校は、保護者が観覧しやすいようにという理由で日曜日に運動会が開催された。翌日は葉月のケースと同じで、振り替えの休日なる。たいていがこのパターンだと思っていただけに、少女の話を聞いて若干驚いた。
「じゃあ、いっそ泊りがけにしてしまうか」
「えっ!? でもママに内緒で、そんなことしていいの?」
  普段は明るい態度で比較的何にでも応じる少女も、さすがに今回は驚きを隠せないようだった。無理もない。母親の不在時に一泊でどこかへ行こうと誘われれば、不審に思って当然である。
  だが春道自身も、まだ若干躊躇ってる部分はある。ママという単語が葉月の口から出たが、予想どおりの展開になっているのなら、松島和葉は春道のとった行動に激怒するのは間違いない。
「なあ、葉月。お前……お祖父さんのこと、どう思ってる」
  お祖父さんというのは、もちろん戸高の姓を持つ松島和葉の実父である。以前はせっかく出向いたが、けんもほろろに追い返されてしまった。当時は葉月もかなり悲しんでいただけに、まだその記憶は残ってるはずだ。
「……凄く怖かったけど、でも……それでも、葉月のお祖父さんだもん。知らないって言われたけど、間違いないんだもん」
  やはりこの少女は、何より家族の絆を大事に思っている。その結論に達した瞬間に、春道の腹も決まった。
  確信があるわけじゃない。けれど、春道はどうしても自分の想像どおりの状況になってるような気がしてならなかった。これで松島和葉が単なる出張だったら、土下座でも何でもすればいいだけだ。
「なら、俺を信じろ」
「……うんっ!」
  春道の言葉に松島葉月は一瞬だけキョトンとしたが、数秒後には相変わらずの元気な声を聞かせてくれたのだった。



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