愛すべき不思議な家族 29

 どうしてこんなことになったのだろう。松島和葉は、今にも雨が降りそうな空を見上げてそんなことを考えていた。
  大切な愛娘の運動会に参加し、入浴と食事を済ませたあとで、運動会で活躍した葉月の自慢話をゆっくり聞いてあげようと思っていた。
  そんな矢先に鳴り響いた携帯電話の着信音。ディスプレイにはあまりお目にかかりたくない発信先が表示されていた。気は進まなかったものの、電話を取り内容を聞く。それがそもそもの間違いだったのかもしれない。
  ……いや、正解だったのだろうか。曇っているせいか、今日はやけに風が冷たく感じる。思わず和葉は両手で自分の身体を抱いた。
  そういえば葉月は元気にやってるだろうか。娘と離れてまだ丸一日も経過してないのに、とても寂しく思える。
  突然の出来事だったので、和葉は高木春道に娘を預けてきた。自分の気持ちどうこうよりも、そうする他に選択肢がなかったのである。
「和葉、こんなところにいたのか」
  庭でボーっとしていた和葉に、背後から声がかけられた。静かに振り向けば、実兄の戸高泰宏が立っている。
  和葉が父親から勘当されてしまったがゆえに別姓を名乗ってはいるが、間違いなく血の繋がった唯一の兄だった。
  昨夜、この戸高泰宏からの連絡を受けて、和葉は大急ぎで電車を乗り継ぎ、勘当される前までは実家だった戸高家へやってきていた。
「……今日は冷えるな」
  隣にやってきた泰宏がボソリと呟く。和葉同様それほど厚着はしていない。夏も間近なこの季節を考えれば当たり前だが、今日に限っては上着が必要なくらいの天候だ。
「……そうね」
  幼い頃から周囲には「あまり似てない」と言われてきた。母親に似ている和葉に対して、兄の戸高泰宏は父親似だった。もっとも性格にかんしてはその逆である。ずっとそれを煩わしいと思っていた。
「嫌な予感が当たってしまったな……」
  戸高泰宏の声に、この前あった時のような元気さはなかった。無理もない。実の父親がこの世からいなくなったのだ。勘当されていた和葉でさえも、少なからずショックを受けている。
  病名は癌だった。頑固者の父親は、和葉はおろか一緒に暮らしてる戸高泰宏にも病名を告げてなかった。医者を説得して、最後の最後まで隠しきったのである。
  そんな父親も世間的には人望があったらしく、訃報を知った人間が次から次に戸高家を訪れていた。
  田舎町だけに、ほとんどの住民が噂で和葉が勘当された理由を知っている。そのためお悔やみを告げる相手は、戸高泰宏ひとりだった。
  別に犯罪に手を染めたわけではない。ただ、親戚も含めて、どう接したらいいのかわからないのだ。もっとも、それはそれで和葉も気が楽だった。
  兄である戸高泰宏の手伝いをしてるうちに、いつの間にか夜が明けて朝になっていた。まるで天まで悲しんでるかのごとく、青空と太陽を隠している。
「……あれだけ元気だったのにな」
  とりとめのない会話を、二人だけの兄妹でなんとなしに続ける。別に目的はなかった。ただぼんやりと会話してるにすぎない。
  和葉はもちろん、戸高泰宏が泣いてる姿もまだ見ていなかった。もしかしたら兄妹揃って、まだ父親を亡くしたという実感がないのかもしれない。
  勘当された身とはいえ、娘だけに当然息を引き取った父親の姿も見ている。安らかな表情は寝顔と大差なく、朝になったらひょっこりと起きてきて、実家へ戻っている和葉を見て「何でお前がここにいるんだ」と怒鳴りそうだ。
  暇ができればそんなシーンが幾度も頭の中で再生された。そのたびに、何て言い返してやろうかなんて考えたりもする。
  ……けれど、朝がきても頭に描いていた映像は現実にならなかった。相変わらず瞼を閉じている父親は横たわったままで、誰の呼びかけにも応えない。
「……なあ」
  ボーっとしている和葉を正気に戻そうとするかのように、戸高泰宏が少しだけ大きな声をだした。顔だけを兄へ向けて、次に紡がれる言葉を待つ。
「……実家に戻ってこないか。もちろん葉月ちゃんも、旦那さんも一緒にさ」
  よもやの提案に、驚いた和葉は目を大きく見開いた。家を継ぐのは長男の戸高泰宏と、生まれた時点ですでに決定している。仮に和葉が勘当されてなかったとしても、それだけは絶対に覆らない。
  押し黙ってる和葉を見て、自分が何を言ったかようやく気づいたらしく、慌てて戸高泰宏は右手を顔の前で左右にパタパタと振った。
「あ、いや、違うんだ。家のことをお前に押しつけようとしてるんじゃなくて、俺も含めて皆で一緒に暮らさないかってことさ」
  多少口は軽いが、戸高泰宏は決して悪い人間ではないし、身の回りのことを何ひとつできないほど自堕落な性格もしていない。兄妹ゆえの贔屓目ではなく、ひとりの人間として和葉は泰宏をそう評価していた。
  もしかしたらこれを機会に、二度と実家には戻ってこなくなるのではないか。もしくは戻ってきづらくなるのではないか。そんな心配をしたからこそ、先ほどの提案をしてきたに違いない。心配性なところも母親そっくりだ。
「あまり笑えない冗談ね」
「冗談なんかじゃないさ、俺は本気で言ってる。部屋はそれなりにあるから、あまり不自由さは覚えないはずだ」
「そういう問題ではないの。私がこの家に住むことを、あの人が快く思わないでしょう」
  あの人というのは、先日死去したばかりの父親のことである。それにいくら家主が変わったからといって、急に家に戻ったりすればご近所のいい噂になるのは間違いない。
「それはそうかもしれない。けど、俺はお前が間違ったことをしたとは思ってないぞ」
  戸高泰宏にしては、珍しく強い口調でそう言いきった。和葉自身も同じように思っている。しかし父親は違った。
  和葉が父親から勘当される原因となった出来事。それは娘である葉月との出会いから始まる。

 もう何年も前になる強い雨の日、早歩きで帰宅を急ぐ和葉は誰かに足を掴まれた。痴漢かと思い、もう片方の足で何者かの手を踏みつけようと――したところでピタリと止めた。
  足を掴んでいたのはひとりの女性だった。豪雨の中で傘も差してないので全身びしょ濡れになっている。身に着けている衣服から察するに、女性はホームレスであるとすぐにわかった。
  こんな田舎町にも少なからず、住居を持たない人が存在している。むしろ土地が余っているぶんだけ、都会からやってくる人も多い。そうした人たちは、主に川原などで生活しており、よく役場の職員たちとぶつかったりしていた。
  この時、和葉は正直面倒くさい事態になったと内心で舌打ちをした。実家は古くから続く家柄のため、当主の父親はしきたりなどに厳しい。当然のごとく門限は決められており、その時刻は間近に迫っている。
  門限を破った理由が、ホームレスの相手をしてたなんて知ったら、烈火のごとく怒るに決まっていた。父親は偏見の塊みたいな人物であり、自分の言うことは絶対だと思っている。これが当主だと言わんばかりの態度だが、年頃の和葉にしてみれば鬱陶しいだけだ。
  そんな理由があったので、早くこの場を立ち去りたかったが、ホームレスだからといって無下に見捨てていくわけにもいかない。自分はあの父親とは違うのだ。
  ホームレスの女性の顔は泥だらけだが、よく見れば整った顔立ちをしている。それに年齢も若そうで、まだ二十代後半ではないだろうか。きちんとした身なりをすれば、かなりの美人であるのは間違いない。
「……この子を……お願い……します……」
「え? な、何ですか」
  もぞもぞと女性が動き、懐から取り出したのはなんと赤ん坊だった。何がどうなってるのか、和葉にはますますわけがわからなくなる。もしかしたら、何かの事故に巻き込まれてしまったのだろうか。
  落ち着くように自分へ言い聞かせながらも、気が動転している和葉は思わずその赤ん坊を女性から受け取ってしまった。するとホームレスの女性はにこりと微笑んだ。
「……暗闇でも……明るく……輝く……月のように……どうか……生きて……」
  唖然とする和葉の足元で、渡した赤ん坊を見上げながら途切れ途切れに呟き、そしてガックリと顔を地面に伏せてしまった。
「――!? だ、大丈夫ですか!?」
  雨音に負けない大きな声で呼びかけても、相手からの反応はない。まるですべての体力を使い果たしたかのように、グッタリとしている。
「そ、そうだ……で、電話を……!」
  ゲームなどの類は一切買ってくれない親ではあったが、もしもの事態に備えて携帯電話だけは持たせてくれていた。バッグの中から慌てて取り出し、赤ん坊を落さないように気をつけながらボタンを押す」
「に、兄さん!? わ、私よ。和葉!」

 人口もそれほど多くなければ、交通事情もあまりよろしくない田舎町。大きな病院など近所にあるわけもなく、救急車でホームレスの女性が病院へ到着したのは、和葉との遭遇から二時間は経過したあとだった。
  ――もう少し早く到着していれば……残念です。
  担当した医者の発した台詞が、和葉の心にずっと突き刺さっていた。救急車を呼んだのは和葉ではなく、兄の泰宏だったのだ。
  パニックになっていた和葉は、救急車を呼ぶより先に家族――兄へ助けを求めてしまった。何をどうしたらいいかわからず、呆然と立ち尽くしてるところへ、連絡を受けた兄が自転車をこいでやってきてくれた。
  その後、状況を認識するやいなや、泰宏はすぐに和葉の携帯電話で救急車を要請した。急いで現場へ来たので、傘も差さずに着の身着のままだったのだ。
  そうして到着した救急車に和葉とともに乗り、現在へ至ってるわけである。病院の看護婦さんから渡されたタオルでひととおり衣服を拭いたあと、泰宏はそれを羽織るように肩へかけている。
  びしょ濡れになっていたのは兄の泰宏だけではなかった。和葉もまた、途中から傘を差すのを忘れて全身を雨に打たれていたのである。兄と同じく看護婦さんから受け取ったタオルを肩にかけていた。
  看護婦さんが気を利かせて暖房を入れてくれたので、寒くはないし衣服も乾き始めていた。けれど身体の震えが一切止まらない。恐怖か後悔か。詳しい理由は不明だが、奥歯がガチガチと鳴っている。こんな経験は初めてだった。
「気にするな……っていうのは無理か……」
「……当たり前のことを言わないで」
  自らを抱きしめるみたいに、和葉は胸の前で交差させた両手をそれぞれ左右の肩へ置く。不意に指先へタオルが触れ、思わず強く握り締める。
「……そうだな。けれど、お前のせいじゃない」
  優しい口調で泰宏が声をかけてくる。どこから見ても傷心の和葉を、兄なりに励まそうとしてくれてるのだろう。
「……私のせいよ」
  黙っていても気は晴れない。それどころか、発狂してしまいそうだった。
「……私があの場で冷静さを失わず、兄さんみたいにきちんと対処できていれば、あの女の人はもしかしたら……」
  知らず知らずのうちに涙が頬を濡らしていた。人前でボロボロと泣くのも初めての経験だった。
「自分を追い込むのはよせ。俺とお前の立場が逆だったとしても、きっと結果は変わらなかった。電話を受けて、不測の事態に対する覚悟がある程度できてたから、たまたまうまく行動できたにすぎない」
  和葉の電話は酷いものだった。ろくに用件も伝えられず、ただ大変だと繰り返していただけのような気もする。正直なところ、何を話していたかも覚えてないくらいなのだ。
「慰めなんかいらない! 私が冷静だったなら……しっかりしていたなら……救えたのに……死なせなくてすんだのに!」
「だから落ち着けって! 目の前で人が死んでショックなのはわかるけど、自分を追い詰めたって何にもならないだろう。それに、きちんと対処できてたからといって、絶対に救えたとも限らない」
「な――!? だったら、どうして兄さんはそんなに冷静なのよ! 父さんと一緒で、ホームレスなんてどうでもいいと言うの!? そんなのおかしいじゃない。同じ人間でしょう!」
  激昂して叫んだあとで、荒い呼吸を繰り返す。泰宏にあたるのは筋違いだとわかっていても、自分の感情をどうにもコントロールできなかった。
  そうしてるうちに、ひとりの看護婦が処置室から出てきた。声を荒げた和葉を注意しにきたのだと思っていたが、どうも様子が違う。その顔は妙に嬉しそうなのだ。
「赤ちゃんは無事よ」
  看護婦の口からでてきた言葉を聞いた時、和葉は最初何を伝えたいのか理解できなかった。
「……お前が偶然通りかからなければ、守れなかったかもしれない命だよ」
  兄の泰宏に言われてようやく意味に気づき、ホッとした和葉はその場にへたりこんでしまったのだった。



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