愛すべき不思議な家族 30
――見てみますか?
看護婦に尋ねられた和葉は即座に頷き、未だ震えてる身体を兄に支えてもらいながら、案内されるがままに歩く。
辿り着いた部屋の中には、小さなベッドにこれまた小さな赤ちゃんが寝せられていた。病院へ連れてきた時よりずいぶん顔色が良くなり、傍目からでももう安心だとわかる。
「……よく頑張ったな」
泰宏の台詞は、赤ちゃんと同時に和葉へも向けられていた。兄なりに励まそうとしてくれてるのがわかっても、とても素直には受け取れなかった。
肩に置かれた手を弾き、振り返って本能のままに感情を爆発させようとした瞬間だった。
不意に上衣の裾が引っ張られる。驚いて背後を振り返ると、ベッドから赤ちゃんが手を伸ばして和葉の服を掴んでいたのだ。
「だあだあ」
生まれて間もない状態で、雨に濡れていた赤ちゃんは先ほどまで生死の淵を彷徨っていた。にもかかわらず、今は元気に笑っている。
反応しなくなったホームレスの女性を見て、脆いと痛感させられた人間の命。しかし今では、こんなにも力強いものなのかと驚かされている。
くりくりとした瞳にじっと見つめられているだけで、怒る気力が萎えていく。沈みきっていた心が、緩やかにではあるけども浮上していくのを和葉は感じた。
「よろしければ、抱いてみますか」
「い、いいんですか……?」
これまで赤ん坊に興味を持った経験などなかった。基本的に子供は嫌いではないけれど、どちらかといえば苦手だった。そんな和葉が、思わず両手を伸ばしていたのである。
まだ三十代前半程度の看護婦さんの手から、和葉の腕の中へ赤ん坊の身体がそっと乗せられた。あれだけ小さく見えていたのに、抱いてみると意外に重い。ずっしりと両手へ伝わってくる重みこそが、命の証なのかもしれない。
そんなふうに考えると、何故だか急に涙がこぼれた。普段はあまり泣かないのに、色々な出来事が立て続けに起きてるせいか、情緒不安定になってるみたいだった。
ホームレスの女性は残念だったけれど、せめてこの子だけでも助かってよかった。和葉は初めてそう思えた。幾度も自分の過失だと己を責め続け、疲れきっていた精神が少しだけ何かから解放される。
けれど……この子の母親はもういない。幼い頃に母と死に別れているだけに、充分すぎるくらいにその寂しさや悲しさは知っている。しかしそれでも、和葉には優しい母親との思い出が少なからず残っていた。
名前も知らない赤ちゃんには、思い出を作る権利すら与えられなかった。和葉が味わってきた境遇より、ずっと辛くて過酷な人生を歩まなければならない可能性が高い。
せめて父親が見つかればいいのだけれど……。そんな願いを持った和葉の下へ、息を切らせた父親がやってきた。
和葉が兄の携帯電話へ連絡した頃には、とっくに自宅へ戻っていたはずである。ならば兄から事情は聞いていてもよさそうだが、病院へ駆けつけてくるまでずいぶんと時間がかかっていた。
室内へ歩み寄ってくる父親を見て、和葉は門限を破ってしまっていることに気づく。とはいえ、不測の事態に巻きこまれての結果なので怒られる心配はないだろう。
「……あのホームレスの子供か」
すぐ側まできた父親が、和葉の両手の中にいる赤子を見下ろしながらそう言った。声には何の感情もこもっておらず、あまりの不気味さに背筋がゾクリとする。
無言の和葉に代わって、看護婦が父親の言葉を肯定し、泰宏がこれまでの事情をひとつひとつ説明していく。そうしてすべてを聞き終えた父親は、正面にいる和葉へこう告げた。
「いつまでそんな汚らわしい子を抱いているつもりだ」
放たれたのは、あまりにあんまりな台詞だった。これまでの感情すべてが吹き飛び、数瞬、和葉の思考が停止する。
「ホームレスの子など捨て置け。まったく、面倒な事態に巻き込まれおって……」
明らかに父親は怒っているが、その理由がいまいち理解できない。一体この人は何を言ってるのだろう。ようやく思考能力が戻ってきた和葉が、一番最初に思ったのがそれだった。
「さすがにいいすぎじゃ……」
普段はあまり父に抵抗しない泰宏が、今回ばかりは眉をひそめて反論する。恐らく和葉と同じ印象を抱いたに違いない。
「言いすぎどころか、言い足りないぐらいだ。大学受験を控えてる身で、厄介事に首を突っ込むとは何事か」
――そう。和葉は現在高校三年生で、もうすぐ卒業と受験を控えていた。今日も大学入試のために、父親の知り合いのところへ勉強を教えてもらいにいっていたところなのだ。
キツい物言いに反感を覚えたのは事実だが、間違った指摘でもない。学校での成績はトップクラスだが、志望している大学もトップクラス。他者に構ってる余裕などないのである。
和葉と泰宏が押し黙ったのを受け、自らの言い分を理解させたと解釈した父親が、ほんのわずかながらも口調を穏やかにする。
「わかったら、お前たちはもう家へ戻れ。あとのことは俺がなんとかしておく」
そうするのが一番だと和葉にもわかってはいた。けれど、どうにも確認しなければ、我慢できない点がひとつだけあった。
「……この子のお父さんを――」
「――無駄だ」
台詞の途中にもかかわらず、父親が和葉の声を遮った。どういう意味か尋ねると、まっすぐに目を見つめられる。まるで聞く覚悟があるかと確認してるようだった。
「……お願い。教えて」
今日一日でとんでもない事態に遭遇し続けている。こうなれば、ひとつふたつ増えたところで一緒だ。和葉が折れないと悟ったのか、父親はふうと小さなため息をつく。
「川原で若い男の死体が見つかった。致命傷となるような外傷はなかったことから、警察では事故死として処理する可能性が高いそうだ。付近で若い男女のホームレスの目撃証言があることから、その子の父親と考えて間違いないだろう」
和葉の視界が真っ暗闇に包まれた気がした。絶望を味わうというのは、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。
父親は古くから続く家の当主であるため、警察や政治家とも多少の繋がりを持っている。なかなか病院へ来なかったのも、そうした情報を知り合いの刑事から入手していたためだったのだ。
「……この子は……どうなるの」
「どうもならん。孤児として施設に預けられるだけだ」
常識的に考えて、それが当たり前の選択だった。別にこの子だけではない。望んでもないのに、不幸な境遇で生きていかなければならない子供は世の中にたくさん存在する。
そうとでも考えなければ、和葉の心はどうにかなりそうだった。ほんの少しの時間とはいえ、こうして赤ちゃんの温もりを知ってしまっているのだ。
「もう充分だろう。早くホームレスの子供をベッドに戻せ。戸高の姓を名乗る娘が、いつまでも醜態を晒すな」
赤ちゃんを抱くことがどうして醜態になるのか。生まれや育ちだけで、その人間のすべてを判断するなんて間違ってる。声高に指摘してやりたかったが、親の保護がなければ生きていけない和葉にはそんな力も権利もない。
ごめんなさい。仕方がないのよ。心の中で赤ちゃんに謝罪しつつ、和葉は小さな身体をベッドに戻そうとした。
「――え?」
いつの間にか赤ん坊は、和葉の上衣の袖を握り締めていた。しっかりとしがみついている様子は、まるで離れたくないと意思表示してるかのようだった。
「だあだあ」
楽しそうな微笑がそこにあった。見捨てようとしていた和葉に、心から安心しきった笑顔を見せてくれている。
自然と視界が涙で滲む。そうだ、自分はこの子を託されたんだ。そんな思いがこみあげてくる。
「私――私が、この子を育てる」
泣きそうになってるせいで声は震えているが、和葉はきっぱりとそう言いきった。自分の発言がどんな意味を持ってるかも、家族がどういう反応を示すかもわかっている。それでも、その選択肢を選ばずにはいられなかった。
「お、お前……自分が何を言ってるのか理解してるんだろうな!? 情にほだされたのだろうが、愚かすぎるぞ! それでも戸高の姓を名乗る者か。恥を知れッ!」
怒鳴られることは予想済みだったが、よもやここまでの罵詈雑言を浴びせられるとは思わなかった。せっかくの決心に水を差され、さすがに和葉もカーっとなってしまう。
「愚かなのはこの子を見捨てようとしてるお父さんじゃない! 自分がしようとしてることぐらい、きちんと理解してるわ」
「いいや、理解などしていない。大体、まだ学生であるお前が、どうやってその赤子を引き取るつもりだ! 無理やり引き取ろうとなんかしたら誘拐だぞ! お前も戸家の人間なら、もっと思慮深くならないか!」
「何よ、さっきから戸高、戸高って! お父さんと同じ名字のせいで赤ちゃんを見捨てないといけないなら、私はこんなのいらない! どう考えても人の命より大事なものではないもの!」
売り言葉に買い言葉。お互い頭に血を上らせた状態で睨み合う。和葉には冷静に物事を考える余裕などなくなっていた。
「落ち着け、和葉。お前の気持ちもわからなくはないが、こればっかりは親父が正しい。お前がどんなに望んだって、無理なこともこの世にはあるんだ」
ひとり客観的な立場から言い争いを見ていた泰宏も、ここで父親側になった。これで和葉の味方は誰もいなくなったのだ。
「そんなのやってみないとわからないじゃない。どうして皆、この子を見捨てる方向で話を進めようとするのよ」
「別に見捨てようとしてるわけじゃない。施設に行ったからといって、不幸になるわけじゃ――」
「それが当たり前だからだ。この馬鹿者が! 我が娘ながら、まさかここまで愚かだとは思いもよらなかったわ! お前が今日まで生きてこられたのは誰のおかげだ!」
泰宏が説得を試みようとしてるのを遮り、父親がよりいっそう声のボリュームを上げて、痛烈な言葉をぶつけてきた。
そう言われてしまったら、和葉には返しようもない。普段ならここで折れてしまっていただろう。けれど、現在の和葉は通常とは違い意固地になってる状態だった。
「別に育ててくれなんて頼んだ覚えはないわ! そんなに言うのなら途中で見捨てればよかったじゃない。この子のように!」
「おい、和葉!」
さすがに言いすぎだと思ったのか、いつもは温厚な泰宏まで大きな声で注意してきた。だがここまできたら和葉も引き返せない。実兄の言葉にも耳を貸さず、自分がこの子を育てるとしつこいまでに繰り返す。
「何度も言ってるけど、少しは落ち着けよ。今のお前は混乱してるだけだ。とりあえず一晩ゆっくり休めば――」
「――もういいっ!」
これまでで一番大きな父親の怒鳴り声だった。室内どころか、病院中に響き渡りそうなぐらいの怒声に、他の医者や看護婦たちもわらわらと集まってくる。
「そこまで言うのなら勝手にしろ。ただし家からは出て行ってもらうぞ。俺の言ってる意味がわかるな」
和葉は無言で頷いた。家を出て行け――つまりは父親から勘当されたのだ。親子の縁を切られる。その事実に心が痛烈に締めつけられるも、両腕の中にある重みを守るために耐えなければならなかった。
「お、おい……和葉……」
うろたえる泰宏が親子仲を心配して、今のうちに謝っておけと忠告してくる。親切心で言ってくれてるのはわかっていたが、どうしても和葉は首を縦に振れなかった。
「ごめんなさい、兄さん。私……この子の母親になってあげたいの」
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