愛すべき不思議な家族 31

「そ、そんなことを勝手に決められても困りますよ!」
  シンと静まり返った室内で、真っ先に声をあげたのは父親でも泰宏でも和葉でもなかった。赤ちゃんを救った医師だった。当直は産婦人科の先生だったらしく、おかげで赤ちゃんの処置も的確に行われた。
  この医師のおかげで赤子は命を救われたのだが、今は困りきった顔をしている。
「お父さんの言うとおり、君の判断は正常だとは思えない。少し落ち着きなさい。大体そう簡単に母親になれるわけがないだろう。養女にするとしても、君はまだ未成年なんだ」
  思いがけない援軍を得た泰宏が、まったくそのとおりだとばかりにウンウン頷く。これでは、父親もさぞかし得意げに和葉を糾弾してくるだろうと思いきや、何も喋ろうとはしない。それどころか――。
「この女性が母親になりたいといってるのだから、そうしてあげればいい」
  と、この場にいる全員が驚く台詞を口にした。助け舟――とは少し違う。実の娘である和葉を、この女性呼ばわりしたのだ。恐らく父親の中では、すでに娘として扱われてないのだろう。だからこそ、先ほどの発言がでてきたのである。
「二人のホームレスは、身元が判明するものを何ひとつ持ってなかった。そしていくらかの外傷はあるものの、他殺と断定できるほどではない。そして他のホームレスとの繋がりも一切ないようだ。こうなってくると、身元の特定は難しい」
  父親の台詞は、知り合いの刑事から聞いた話がベースとなっている。そうでなければ別に警察関係者でもない父親が、そこまで内情を把握できるはずがない。
「ならばいっそ、彼女が産んだということにすればいい。見知らぬ男と夜を共にし、妊娠させられた挙句捨てられたのに、それでもその男の子供を産んだ。親に勘当される理由としてもピッタリだ。そうは思わないか」
  視線を向けられた和葉は無言で頷いて見せた。赤ちゃんの母親になると決意した瞬間に、周囲からの誹謗中傷を受けるのは覚悟していた。父親はそれをもっとも過酷な条件で、実の――いや、かつて娘だった人間に味わわせようとしてるのだ。
「な、何を言ってるんだ。親父も正気になれ。さすがに大人げないぞ」
  珍しく泰宏が父親を叱責する。だが、それを受け入れられるような人間だったならば、この話もここまでこじれてはいない。赤ちゃんが成人するまで、戸家で面倒を見ればよかっただけの話なのだ。
  もっとも何より家名を大事にする父親が、そんな真似をできるはずもなかった。古い土地柄のせいか、この田舎町では必要以上にホームレスは嫌われている。
  どうしてそうなってしまったのか理由も考慮せずに、ただひたすら汚らわしい存在として扱う。もしかしたら、ホームレスたちを余所者と認識しているのかもしれない。排除することにより、自分たちのエリアを守ろうとしている。
  仮説が正しいのだとしたら、なんとちっぽけな存在なのか。年代のせいかもしれないが、和葉にはそこまでして大事に家名を守らなければいけない理由がわからなかった。
「これは俺が決めたことだ。それとも、お前も家を捨てるぐらいの覚悟で逆らってみるか。遠慮ならしなくてもいいぞ」
  父親の言葉に、泰宏は無念そうに黙ってしまう。長男である兄は、常日頃から戸高の姓を告ぐ存在として心構えなどを教えこまれていた。次期当主として、家名の大事さは和葉などよりずっとよく理解している。
  そんな兄が家を捨てるなど言えるはずもなかった。東京の大学を卒業すると同時に、父親の命によって実家へと戻ってきたぐらいだ。
  今は父親の仕事を手伝いつつ、万が一の事態のために備えている。周囲も泰宏が家を継ぐと思ってるだけに、和葉より兄がいなくなる方が父親のダメージも大きい。
  それでもあえて先ほどの台詞を口にした。その事実は、父親もそれだけの覚悟をしてるのだと泰宏に通告したも同然だった。そしてそれは和葉も同様である。
「で、ですから、勝手に話を進めないでくださいと言ってるんです!」
  横やりを入れてきたのは、またしても赤ちゃんを救ってくれた医師だった。父親が有力者なのを知ってるのだろう。少し怖がってる様子も見受けられるが、それでも自分の言いたいことをしっかり口にしようとしている。
「妊娠届も提出してないし、母子手帳だって貰ってないでしょう。妊娠していたことを証明するものが何ひとつないのに、個人の判断で勝手に出産したことになんてできるわけがないんですよ!」
  言われてみればもっともな理由である。女性とはいえ、そうした事態に直面した経験のない和葉は、妊娠及び出産時に何が必要かなんてほとんど知らない。友人に聞こうにも、自分自身も含めて、皆まだ学生なのだ。
「それにお腹が大きくなってれば周囲だって気づきます。妊娠の兆候もなかった女性が、いきなり出産しましたなんて言っても、信じてもらえるわけがない。諦めてください」
「そうでもないぞ」
  医師は和葉に諦めてくださいと言ったのに、そう応じたのは父親だった。どうやらここまできた以上、てこでも親子の縁を切りたいのだろう。中途半端を好まない性格をしてる父親らしい判断である。
「どこかの国の女性の話で、腹筋を鍛えていたがためにあまりお腹が目立たなかったという事例があったはずだ。絶対にないとは言い切れない。それに妊娠がわかっても、出産まで医者に行かない女性だっているだろう」
  何故、父親がそんなことまで知ってるのかは謎だが、和葉としても一度母親になりたいと決めただけになんとかしたかった。縁を切られた立場ではあっても、心の中で父親だった男性を応援する。
「そ、それはそうかもしれませんが、今回とはまったく話が違います。お話にあった女性は、どちらも当人が妊娠していたことが前提でしょう。その赤ちゃんは、お嬢さんがお腹を痛めて産んだ子供ではありません!」
「わからない奴だな。だから和葉が今日ここで出産したことにすればいいだろう。どうせ、その赤ちゃんの出生届けはまだ提出されてないはずだ」
「そんな無茶な……! それでは私に不正をしろと言ってるようなものじゃないですか」
「ようなものじゃなく、はっきりとそう言っている。今頃理解したのか」
  いけしゃあしゃあとそんな台詞を口にした父親を前に、正義感溢れる産婦人科医もさすがに絶句してしまった。堂々と虚偽の書類を作成しろと言われるなんて、想像もしてなかったに違いない。
  いや、もしかしてその可能性があると考えていたからこそ、赤ちゃんの処遇を正当な手段で決めることを望んだのかもしれない。
「お前じゃ話にならんな。院長と直接話すことにしよう。お前は病院へ泊まらせてもらえ。どうせ赤ん坊と離れる気もあるまい」
  指摘されたとおりだった。和葉がいない隙に、望まない方向へ事が進んでたりすれば後悔してもし足りない。きちんと赤ちゃんの母親と認めてもらえるまで、この場にいるつもりだった。
「ま、また勝手に決めないでください。そんな真似は許可できません」
  意地でも引く気配を見せない医師と父親が睨みあう。そんな中、小走りにひとりの老齢の男性がやってきた。白衣を着てるのを見る限りでは、どうやら男性もこの病院の医師みたいだった。
「院長先生」
  最初に赤ちゃんを抱かせてくれた看護婦が、老齢の医師をそう呼んだ。幼い頃から優良健康児だった和葉は、病院のお世話になった経験がほとんどない。家族で病弱なのは、すでに亡くなってしまっている母親だけだった。
「こ、これは戸高様」
  父親の姿を確認した院長が慌てて頭を下げる。病院に対してか、それとも院長個人に対してかは不明だが、どうやら何か便宜を図ってあげているようだった。
  垣間見た大人の世界に汚らわしさを覚えたものの、和葉はそれをぐっと我慢した。自分もいずれは、そうした世界の中で歯車として生きていかなければならないのだ。
  小声で院長と父親が話し合い、やがてとりあえず和葉が赤ちゃんと同じ病室へ泊まることを特別に許された。
  そのあとで、院長の判断に露骨な不満顔をした医師が呼ばれ、父親も含めた合計三名がどこかへと歩いていく。恐らくはどこかの個室で、損得勘定を丸出しにした話し合いが行われるに違いない。
  喧騒が収まったことで、看護婦たちも通常の夜間勤務へと戻っていく。赤ちゃんを抱かせてくれた看護婦だけが「何かあったらナースコールで呼んでね」と和葉に声をかけてくれた。他の人たちはあまりかかわりたがってなかった。
  優しくしてくれた看護婦も、仕事だからと割り切って和葉に接してくれていたのかもしれない。そこまで考えて、疑い深くなってる自分自身に嫌気を覚えた。神経が昂ぶってるせいで情緒不安定にでもなってるのだろうか。
「……本当にお前はそれでいいのか」
  心の中を読めるわけではないだろうが、計ったようなタイミングで泰宏が話しかけてきた。赤ちゃんを抱いたままで、和葉は視線だけをそちらへ向ける。
「親父のことだから、強引に院長や担当医師を丸め込むかもしれない。けど、やろうとしてるのは明らかに違法行為だ。バレた時はお前だけじゃない。その子も被害を受けるんだぞ。きちんと後々についても考えろ」
  やはり兄の泰宏にしては厳しい口調だった。それだけ妹である和葉の心配をしてくれてるのだ。気持ちはありがたかったし、指摘された点も正しい。理屈ではわかっているのに、どうにも感情がコントロールできない。こんなケースは生まれて初めてだった。
  チラリと赤ちゃんに視線を向けると、周囲が静かになったせいかすやすやと寝息を立てていた。とても幸せそうな表情をしており、眺めてるだけで和葉の心も癒される。心の底から守ってあげたいと思うのは、母性本能が刺激されてるからなのだろうか。
  理由はわからなくても、赤ちゃんの母親になるという決意だけは変わらない。それを兄の泰宏にも告げる。仮に事が露見して、強制的に離れ離れにさせられる未来しか待ってなくても、今の気持ちを何より大事にしたかった。
「……お前にそこまでの覚悟があるのなら、俺はもう何も言わないよ」
  肩をすくめて小さく息を吐いたあとで、諦めるように泰宏は言った。けれどその顔には、わずかながらに笑みを浮かべている。
「ところで、その子の名前はどうするんだ」
  赤ちゃんと和葉以外で、個室に唯一残っている泰宏が不意にそんな質問をしてきた。聞かれて初めてそのことについて考える。
  本当の母親であるホームレスの女性はすでに他界しており、身元不明なので名前を知ることすらできない。事情を知ってるであろう夫らしき男性も、妻とは別の場所で息を引き取っていたみたいなので、そちらからも教えてもらうのは不可能だ。
  となると夫婦の名前から一文字もらって……なんて名前の付け方もできない。本来母親になるはずだった女性に申し訳なく思いつつも、和葉が独自に名前を決めさせてもらうことにする。
  看護婦から赤ちゃんは女の子だと聞いているので、それらしい名前をつけてあげないといけない。加えてせっかく縁を持つことになるのだから、その証も刻みたかった。
「……そうね。和葉の葉に月で、葉月なんて名前はどうかしら」
  思案を重ねて決めたつもりだったが、自分の名前が入ってるので苦笑されるかもしれない。そう思っていたが、予想に反して泰宏はからかったりせず「いいんじゃないか」と言ってくれた。
  いくらこの世に存在しない夫婦とはいえ、人の子を横取りしてまで自分の子供とするのだ。和葉にこの先、輝ける人生が待ってるはずもない。けれど、せめて赤ちゃんには明るい人生を歩かせてあげたい。そんな願いも込められている。
「満月みたいに、まん丸で可愛い顔をしてるもんな。この子にはぴったりの名前だよ」
  泰宏にそんなことを言われて、和葉は驚きのあまり目をパチクリさせてしまう。
「どうかしたのか?」
「……いいえ」
  小さく首を左右に振ってから、改めて葉月と名づけた赤ちゃんの顔をじっくり眺める。確かに泰宏の言うとおり、例えるなら丸いお月様というのが一番ぴったりだった。
「……よろしくね。私の可愛いお月様」
  和葉が挨拶すると、眠ってるはずの赤ちゃんが「こちらこそ」と微笑んでくれたような気がした。



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