愛すべき不思議な家族 32
例の看護婦が、こまめに和葉と赤ちゃんがいる個室に顔を出してくれたため、夜泣きなどに困ったりはしなかった。気持ちが高揚していたせいか、ほとんど睡眠はとれてないのに不思議と眠気はない。
泰宏は昨夜のうちに帰宅しており、現在は個室に和葉と女の子の赤ちゃんだけがいる。早朝から朝日が元気に働いており、窓から柔らかな日差しが肌へ降り注いでくる。
そんな爽やかな朝を満喫していると、唐突に部屋のドアが開かれた。廊下に立っていたのは、父親とこの病院の院長先生の二人だけだった。昨夜はもうひとりの医師もいたのだが、先に帰ったのだろうか。
「受け取れ。これでお前は俺の子じゃなくなる。せいせいするな」
憎まれ口を叩いた父親が和葉へ手渡してきたのは、出産証明書だった。すぐ後ろに立っていた院長が、それを持って役所へ行けば実の子供として認可されると教えてくれた。そのあとで、決してこのことを他言しないようにとも付け加えられる。
病院の長が率先して法を犯すとなると、やはり父親は多額の寄付金か何かをしてるのだろう。考えられなくもない。ここは和葉の母親がなくなった病院でもある。その当時から繋がりがあったのだとしたら、入院先に選んだのも頷ける。
「十日だけ猶予をやる。その間に荷物をまとめて、父親が誰かわからない子を連れて出て行くのだな。恥知らずな不良娘として」
「……わかったわ」
和葉にはそう返事をするしかなかった。こうなるのがわかっていて、赤ちゃんの――葉月の母親になりたいと願ったのだ。別に後悔はしてないし、する必要もない。
「俺の子じゃなくなるんだから、戸高の姓を名乗るのも許さん。これからはあいつの姓だった松島を使え」
「……私としては、ありがたいかぎりだわ」
父親のことだから、名字も勝手に決めろと言われる可能性もあると思っていた。それが母親の姓である松島を名乗れるのだから、本当に嬉しかった。
「赤子は入院が必要だそうだ。その間に色々な手続きを済ませておけ」
そう言い残して父親はさっさと部屋から出て行き、ひとり残った院長先生が赤ちゃんのこれからについて説明してくれた。こうして和葉は、母親としての一歩を踏み出すことになったのである。
住むところは兄が用意してくれた。成人している泰宏の名義でアパートのひと部屋を借りてくれて、高校を卒業するまでの間そこへ住んだ。幸いにして卒業間近だったので、高校へ行く日数はあまり多くなかった。
それでも学費は自分で稼がなければならないため、放課後は毎日バイトをして収入を得た。働いてる時間は個人で経営している民間の保育所へ預け、その費用も必要だった。
二つのバイトをかけもちして、月に十万円以上稼いだが、それらはすべて必要経費で消えていった。幸いにしていくらかの貯金をしていたので、それを切り崩して極貧ながらも生活はできていた。
周囲の反応は予想どおりに冷たく、それまで友人だった者たちもひとり、またひとりと事情をしるたびに離れていった。事情というのは、もちろん和葉が男遊びの末に子供を妊娠して産んだというものだ。
変な同情をされるのも嫌だったし、そうすることが父親との約束だったため忠実に守った。後ろ指を差されるのは毎日で、さすがに辛く思った時もある。けれど、バイトを終えて保育所へ行くとすぐに疲れは吹き飛んだ。
娘となった葉月の可愛らしい笑顔を見るたびに、自分の決断は間違ってなかったと確信できた。これからも頑張る気力が湧いてきて、毎日忙しく過ごしてるうちに周囲の雑音は気にならなくなり、いつの間にか学校を卒業していた。
子持ちになった身で大学へ行くのは難しく、和葉は迷わず就職を決意した。けれど事情が知られている地元では、そう簡単に決まるわけがなかった。そこで和葉は住み慣れた土地から出て行くことを決意する。
母親との思い出が残る町に未練がないわけではなかったが、自分を知る人間が誰もいない土地で生活したかった。そうすれば煩わしい噂話や、人を目の前にしてのヒソヒソ話に苛々したり悲しんだりする必要もなくなる。
住み慣れた町を離れると決めたまではよかったものの、別に行くあてがあったわけじゃない。そこで日本地図だけを頼りに、色々な土地を葉月と一緒に下見してまわった。そうして選んだ新天地は、地元より発達してるものの、わりと田舎な町だった。
高校を卒業したばかりでありながら、すでに子持ちの若い女性。住むところを探すだけでもひと苦労だった。安いホテルに泊まりながら、就職活動をする日々。そんな中、ひとりの老婆と出会い、住んでいた家を安値で貸し出すと申し出てくれた。
安ホテルから職業安定所へ行く途中に、その老婆の家はあった。毎日挨拶をしてるうちに仲良くなり、お昼ご飯をご馳走してくれたりもした。お金も身よりもない和葉にとってはありがたいかぎりで、生まれて初めて人の優しさに感謝した。
近々、子供夫婦の家へ厄介になるということで、現在の家をどうしようか丁度悩んでいたらしい。老婆の好意に甘え、和葉は格安で住む家を見つけた。住民票を移し、きちんとした住所ができたことでなんとか就職もできた。とはいえ、正社員ではない。
正社員を探しても手ごたえがなかったので、おもいきってパートで大手企業の地方店へ入社した。とにかく収入を得るのが第一条件だと判断したのである。家賃が格安だったため、他にもアルバイトをすれば生活はなんとかなりそうだった。
朝早くから葉月を民間の保育所へ預け、がむしゃらに和葉は働いた。その頑張りのおかげで、パートながらも長時間の勤務を会社から認められる。自給も格段に上がったので、もうひとつアルバイトを辞めた。
総収入は若干減少したものの、その代わりに葉月と過ごせる時間が増えた。これが一番嬉しかった。誰も頼る人間がいなかった中で、なんとかおぼろげながらも人生に光が見えてくる。実家を出てからすでに三年が経過していた。
そうして毎日が忙しく過ぎていき、和葉が会社から正社員にならないかと誘いを受けた時には、葉月はもうすぐ小学生になろうとしていた。もちろん生活のために快諾する。
たくさん寂しい思いもさせてきたが、家にいる間はなるべく葉月と一緒に過ごした。その途中で親切にしてくれた老婆が亡くなる。葬儀に参列した和葉は、その席で老婆の子供と話をして現在住んでいる家を購入することになった。
大手企業の社員となっていただけに、銀行も快く融資してくれた。現金で家の代金を支払い、あとは毎月銀行に借金を返済していくだけである。葉月も家を気に入っていたので、丁度よかった。
だがとある日、問題が発生する。保育所の頃から父親を恋しがっていた葉月が、どんな人なのか熱心に尋ねてくるようになったのである。困った和葉は適当にアルバムをめくる。そうして一枚の写真に偶然目をとめた。
――ポツポツと雨が降ってきた。しずくが空を見上げている和葉の顔へ当たり、まるで涙のように頬を流れていく。
「……本当に大丈夫か」
兄の声で、過去の回想から完全に現実へと意識が戻ってくる。いつでも泰宏は和葉を心配してくれていた。長年互いに連絡を取り合ったりはしなかったけれど、それだけはよくわかっている。
一生懸命がむしゃらに生きてきて、ようやくゆとりを持ち始めた頃に高木春道と出会った。ものすごい偶然に、初対面の時は心臓が止まりそうなぐらい内心で驚いていた。
何とも言い難い奇妙な展開で結婚することになり、久しぶりに和葉は兄の携帯電話の番号を押した。手短に結婚の報告をした和葉に心からの「おめでとう」とくれた。あの嬉しそうな声は今でもはっきり思い出せる。
「いつまでもここにいたら風邪をひくぞ。家の中に戻ろう」
雨は少しずつ勢いを強めだしていた。このまま外にいれば、遠からずびしょ濡れになってしまうだろう。泰宏の言葉に頷き、和葉は玄関へ向かおうとした。
「ママー」
「――え!?」
突如耳へ届いてきた聞きなれた声に驚き、和葉は玄関へと続く門の方を向く。そこにいたのは、紛れもなく娘の葉月だった。過去の幻影などではなく、しっかりと成長した今現在の姿だ。
駆け寄るよりも先に、どうしてこんな場所にいるのかが疑問で、思わず和葉はその場に立ち尽くしてしまう。ぼーっとしてる横を通り抜け、葉月に近づいていったのは泰宏だった。そしてよく見れば、娘の側にはもうひとり人間がいる。高木春道だ。
正体が判明するなり和葉は駆け出していた。愛する娘が自分を呼ぶ声すら聞こえず、真っ直ぐに高木春道の前を目指す。
――パアンッ! 相手が口を開くより早く、和葉は高木春道の頬へ平手を見舞っていた。乾いた音が、雨天の空へ実にこぎみよく響き渡る。唖然とする周囲に構いもせず、気づけば和葉は声を張り上げていた。
「一体どういうつもりですか!?」
「マ、ママ……?」
「葉月は少し黙ってて!」
怒鳴られた葉月は、驚いたような悲しそうな顔をしながらも和葉の言葉に従う。叩かれた高木春道は別に怒りもせず、普段と同じ目で正面から見つめ返してくる。
この場へ葉月を連れてきたということは、和葉がついた嘘は見破られてしまっていたということに他ならない。けれど娘を伴ってやってくるのはルール違反だ。出張とまで嘘をついてこの事実を隠そうとしたのに、これでは苦労が台無しである。
「どういうつもりか聞きたいのはこっちだ」
悪びれもせず、高木春道がしれっと口にした。どうやら先日、多少はいいところがあると見直したのは和葉の大きな間違いだったらしい。結局のところ、この男性に思慮深い一面などなかったのだ。
別に父親――葉月にとっては祖父の死を知らせたくなかったわけではない。けれど教えたら、確実に娘は実家へ着いてきたがるに決まっていた。和葉はそれを避けたかったのだ。
理由は簡単。親戚一同が集まる場所に連れてくれば、いやおうなく葉月が和葉の実の娘ではない事実がバレる。父親同様に戸高の名を大事にしてる人々だけに、和葉が葬儀に参列するのさえ嫌がったくらいなのだ。
自分のせいで娘をこれ以上苦しめたくない。そんな思いから嘘をつき、今回の葬儀へひとりだけで参加した。仮に高木春道にバレたとしても、和葉の意図を理解してくれると信じていた。根本的にそれが愚かな考えだった。
「……そっちが怒るのも当然だ。けど、少しは葉月の気持ちも考えろよ。経緯がどうであれ、こいつにとって祖父には変わりないだろ。葬式に参加して悲しむ権利はあるはずだ」
そんなことはわかっている。そしてそれが正しいとも。だからこそ、余計に和葉は腹が立った。どうして他人も同然のこの男に、こうまで言われなければならないのか。
「言われなくてもわかってるわよ! そっちこそ、私の意図を少しは理解しようとしたの!?」
「当たり前のことを聞くな。けど――」
「――信じられない! 考えた上でこの行動を起こしたってこと!? どこまで愚かなのよ。本当に信じられない!」
怒りに任せて発言してるだけに、当初は冷静に対応しようとしていた高木春道も、徐々に苛々し始めてるようだった。
けれど、ここまできたらどうにも止まらない。和葉は爆発してしまった感情を冷静に処理できず、ますますヒートアップしていく。
「まさか、ここまで最低な人間だとは思いもしなかったわ! 頭がおかしいんじゃないの!?」
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