リセット

  58

 例え誰に告白されようとも、常に水町玲子を一番に考えている。その事実がわかれば、恋人の少女も納得してくれる。やはり人間は誠実さが、もっとも大切なのだと痛感する。
 玲子のお見舞いを終えた哲郎は、今日も恒例のアルバイトに励んだあと、水町家にて遅めの夕食をご馳走になっていた。
 風邪で寝込んでいる玲子には、すでに母親が食事を部屋まで持っていき、済ませたみたいだった。今は薬を飲んで、ぐっすり眠っているらしかった。なので食卓には恋人の両親と、哲郎の三人だけである。
 なかなか会話が弾まないかと思いきや、恋人のお父さんとお母さんは、ここぞとばかりに玲子と哲郎の関係について質問をしてくる。
 やれどこまで進んでいるのかなど、かなり際どいのまであり、哲郎の方が躊躇ってしまうくらいだった。
 普通に交際しているだけと正直に告げるも、何故か相手の両親に残念そうな顔をされる。高校生らしい清い付き合いだと賞賛されてもおかしくないだけに、相手の反応は不思議だった。
「私は哲郎君を気に入ってるからね。君なら、娘も安心して任せられる」
 玲子の父親によるいきなりの発言で、思わず口の中に含んでいたおかずを噴出しそうになる。アルバイトさせてくれている現状で、そういう期待は敏感に感じ取っていたが、しっかり言葉にされると照れ臭かった。
 けれど哲郎とて、そのような気持ちがないわけではなかった。相手の両親が望んでくれているのなら、この上ない幸せになる。
「俺もそのつもりですけど、まだ学生ですからね」
 そう言うと玲子の父親は「それもそうだな」と豪快に笑った。工場の経営が軌道に乗っているのもあり、最近の水町家の雰囲気はとにかく明るかった。
 哲郎も自宅で、母親とわりと円滑なコミュニケーションをとれているし、順調すぎるくらいの日々を送られていた。
「安心したわ。哲郎君が、きちんと玲子との将来を考えていてくれて」
 玲子の母親も満面の笑みを浮かべる。腹心の部下による資金持ち逃げを阻止したのもあり、哲郎への評価はすでに最高レベルへ達している。
「ご両親の前で言っていいのか迷いますけど、本当に大切な存在ですから。力の限り、守ってあげたいですしね」
 偽らざる哲郎の本音を受けて、玲子の父親が満足そうに頷く。結婚の承諾を貰うのに苦労する男性が多い中で、非常に恵まれた展開だった。
 以前からこのようなやりとりは何度かしているが、今日ほど真剣なのは初めてかもしれない。娘の夫候補として認められるのは、哲郎としても望むところだ。
「哲郎君のことだ。きっと宣言したとおりにしてくれるだろうな。そら、もっとご飯を食べなさい。人を守るには、強い体を作らないといけないぞ」
「はい。いただきます」
 元々食は細かったのだが、やり直した人生において食事量が増えたため、本来の哲郎よりずっと屈強な肉体になっていた。
 マッチョとまではいかなくとも、日々の業務をこなしているうちに筋肉もだいぶついた。人前で上半身を露にしても、恥ずかしくないレベルにはなっている。
 恋人の家で食事をご馳走になりながら、その両親と楽しく会話をする。ひとりきりで歩んだも同然の人生が、まさかこのように変化するとは当時の哲郎は夢にも思っていなかった。
 一見、何もないように思える人生でも、選択肢を間違えなければ幸せな結末に辿り着ける。ただしそのためには、自ら行動を起こすのが必要最低限の条件になる。そのことを、哲郎は繰り返しの人生において学んだ。
 過去へ戻られるスイッチのおかげだが、他の人間にこのような裏技は存在しない。気づけない者は、最後までどうしてこうなったのかわからないまま終焉を迎える。
 自分自身の幸運に感謝すると同時に、哲郎は事あるごとに考える。こんなに便利なスイッチを所持していながら、どうしてプレゼントしてくれた老婆は沈没したままの人生を選んだのか。
 相変わらず、悩んでも答えは出てこないが、何か酷く重要な案件に思えてならなかった。しかし、あの老婆と出会う方法はもうわからない。哲郎はすでに、従来とは大きくかけ離れた人生を歩んでいるのだ。

 こんなに順調でいいのだろうか。この言葉を、何度も哲郎は頭の中で繰り返してきた。
 哲郎と水町玲子の関係は通っている学校でも認知されており、余計な横槍は入ってこなかった。
 恋人の両親が経営する会社でアルバイトをしており、交際の挨拶も済ませている。しかもそのことを、当の水町玲子が嬉々としてクラスメートに教えていたりする。
 別に隠す必要もないので、哲郎も尋ねられれば素直に頷いた。暑い夏が通り過ぎ、過ごしやすい秋を楽しみ、厳しい冬を乗り越える。
 日本人の特権ともいえる四季を、恋人の少女と一緒に堪能した。平和だけれど、ありがたい時間だった。
 アルバイトの休みには、一緒に海水浴をしてはしゃいだりもした。とりわけ夏の思い出が一番、多いかもしれない。
 そして本来の高校生活では考えられなかった幸せもあった。大人にすればたいしたことでないかもしれないが、水町玲子との口づけも何度か経験した。
 着実に大人の階段を上っており、このまま進んでいければいいと思っていた。だがその前に、乗り越えなければならない試練がもうひとつ残っていた。
 哲郎の母親の梶谷小百合である。哲郎の知っている歴史どおりになるのであれば、高校二年生の時に交通事故で他界する。
 幾度も繰り返した人生の果てに、ようやく水町玲子との幸せな関係を手に入れた。従来であれば不可能な願望を、見事に叶えられたのである。
 例のスイッチさえあれば、必ず母親も助けられる自信があった。大丈夫だ、自分ならやれると哲郎は気合を入れる。
 お正月に玲子と一緒に初詣をして、振袖姿の恋人と新年を祝った。急ぐように全速力で駆け抜けていく人生の中で、喜びをひとつひとつ噛み締める。
 アルバイトにも慣れてきており、周りの従業員からは「若」と呼ばれるようになっていた。誰もが哲郎を、水町家の工場の後継者だと考えていた。
 無事に二年生となり、大勢の新入生が高校へやってきても、哲郎の生活は変わらない。学校では真面目に勉学へ取り込み、放課後になれば水町家の工場で働く。
 忙しい日々を送りながらも、恋人の少女への気遣いも忘れない。日数が経過するごとに、哲郎は玲子との愛を育んでいた。
「私たちも上級生になったんだね」
 ある日。学校からの帰り道で、隣を歩いている恋人の少女こと水町玲子が哲郎へ話しかけてきた。
「一年があっという間だったね。でも、玲子と一緒だから凄く楽しかったよ」
「私も。哲郎君がいない人生なんて、もう考えられないよ」
 握っている手に、どちらからともなく力が加わる。まるで握力の強さが、愛情の度合いを示してるといわんばかりだった。
 手のひらから伝わってくる温もり。だいぶ慣れてしまっているが、幾度も人生をリセットしてきた哲郎が欲してやまなかったものだ。
「これからも、よろしくね」
 不意に向けられた笑顔と言葉に、哲郎は静かに頷く。握った手は決して離さない。今度こそ、ハッピーエンドを迎えてみせる。
 幸せに過ぎていく時間の一方で、着実に母親が事故にあう日も近づいてくる。
 これまでは水町玲子にかかりきりだったため、詳しい日付までは忘れていた。しかし春の出来事だったのは覚えている。
 ここが正念場だと、哲郎は浮かれすぎないように気をつける。母親を事故から救ったうえで、最愛の女性とともに人生を歩んでいくのだ。

 緊張の日々が続く。人生でもっとも忌まわしい出来事になるであろう瞬間が、音も立てずに近づいてきてるのがわかる。
 けれど風邪が治ったばかりの水町玲子に心配をかけるわけにはいかないので、表面上はいつもどおりに生活をする。
 例のスイッチがあればいくらでも過去に戻られるとはいえ、自分を産んでくれた母親の最期を看取るのは気分の良いものではなかった。
 防げるものなら、防ぎたい。いや、絶対に阻止してみせる。常に気を張っているため、ゆっくりと休むことができない。眠りも必然的に浅くなる。
 それでも哲郎は最初の人生を思い出しながら、忌まわしい事故がいつ起きるのかを必死に探っていた。
 今日だったのではないだろうか――。毎朝、起きるたびに何度そう思ったかわからない。けれど、今日まで母親はいつもの笑顔を見せてくれている。
「哲郎。貴方、顔色が悪いわよ。きちんと眠れているの?」
 心配してくれる母親の梶谷小百合に、哲郎は「大丈夫だよ」と言葉を返す。間違っても、貴女が事故で他界するのを防ごうと頑張っているからですなんて言えなかった。
 真剣な顔で話したとしても、妄言扱いされるのがおちだ。下手をすれば、専門の病院へ連れて行かれかねない。水町玲子を救った際みたいに、ひとりでやるしかなかった。
 朝食をとり終えたあとで、哲郎は通っている高校へ向かうために家を出る。すると、いつもは玄関先で見送ってくれる小百合が、慌てて外まで駆けてきた。
 どうやら哲郎が忘れ物をしていたみたいで、それを届けようとしてくれたのだ。お礼を言って受け取り、しっかりしなくてはと己を戒める。
 その直後だった。哲郎の脳裏にかつての記憶が蘇る。忘れ物を届けてくれた母。高等学校へ向かう自分。そしてわずか数分後に訪れる悲劇。すべてが繋がり、この後の展開を知る。
「どうしたの? 早く向かわないと、遅刻してしまうわよ」
「今すぐ行くよ。だから母さんは、早く家の中に戻って」
 哲郎の背中が見えなくなるまで玄関先に立っていたあと、ついでとばかりに掃除をし、その足で買い物へ出かけようとする。
 そこまでが知っている情報だった。事故を目撃した近所の人から聞いたものだ。当時の哲郎は、高校で授業を受けている最中だった。
 慌てて教室へ乱入してきた担任教師から、母親の悲報を聞かされて愕然としたのを覚えている。
「変な子ね。いいから、早く行きなさい。もう忘れ物はないでしょう」
 できれば今日はずっと、家の中でじっとしていてもらいたかったが、難しい相談なのはわかっていた。
 仕方なしに哲郎は登校するふりをして、途中で家の近くまで引き返す。玄関からは死角になる位置へ隠れ、母親の動きを監視する。
 案の定、掃除をしに玄関先へ現れた小百合。流れるような動作で作業を終えると、思い立ったように家の中へ戻る。
 次に出てきた際には、両手で財布を持っていた。やはり今日で間違いないと確信し、哲郎は小百合の後をつける。
 買い物をする時はいつもそうなのか、小百合は色々な店を見ながら歩いている。そのためよそ見がちになり、危険が目前に迫ってくるまで気づけないのだ。
 普段どおりに買い物を楽しむ小百合を眺めている哲郎は、すぐに異変に気づく。遠くから自動車が暴走気味にこちらへ向かってきていた。
「母さんっ!」
 すぐに哲郎は隠れるのをやめて飛び出していた。母親の手をがっしり掴み、そのまま車から逃れるように移動する。
 わずか数秒後。車は先ほどまで小百合がいた場所を、猛スピードで通過していった。怪我人は誰もいない。もちろん哲郎の母親もだ。
「て、哲郎……? あ、貴方、どうしてこんなところにいるの。学校はどうしたの」
「良かった……」
 学校をサボっているのを怒られながらも、哲郎はそう呟いて涙を浮かべていた。またひとつ、望みが叶ったのである。


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