リセット

  59

 母親の梶谷小百合の一件を片付けてからだったので、当然のごとく、哲郎は所属している高校へ遅刻して到着した。
 待ち合わせ場所に水町玲子の姿はなかったので、恐らくは先に登校しているはずだった。哲郎の家まで迎えに来ても、母親の買い物を尾行中なので、応対してくれる人間は誰もいない。
 心配しながらも、まずは学校へ行き、欠席をするようだったら帰りにも寄ってみる。水町玲子という女性ならば、恐らくそのような考えをもって行動する。
 哲郎の推測は正しかったらしく、教室ではすでに到着していた水町玲子が自分の席に座って授業を受けていた。どことなく元気がなさそうだったが、こちらの姿を見るなり笑顔を見せてくれた。
 日頃の行いが良かったのか、遅刻に関しては軽い注意で終わった。次は事前に連絡するようにとだけ言われ、自分の席へ座るのを、授業を担当中の教員に許可される。
 着席したあとは、いつもどおりに参考書とノートを広げて授業に参加する。だが平常心ではいられなかった。母親の梶谷小百合の事故を防いだ高揚感が、今でも哲郎の全身を包んでいる。
 自らの人生で失った大切な二人を、見事に取り戻した。未来を知っているからこそできた芸当だが、ここまで到達するには様々な紆余曲折があった。
 あとは幸せに人生を終えるだけだ。恋人の両親にも気に入られており、どのような想像をしても哲郎の未来はバラ色だ。そんなことを考えているうちに、授業の終了を告げる合図が教室へ鳴り響いた。
 休み時間になるなり、二年生になっても同じクラスに在籍している水町玲子が、哲郎の席まで駆けつけてきた。どうやら担任となった教師が気を遣ってくれて、わざわざ同じ学級へ配属してくれたみたいだった。
 哲郎の成績は相変わらず学年トップ。このままいけば間違いなく、日本で最難関の大学にも合格できる。一方の水町玲子も、交際を継続しているうちに、着実に学力をアップさせていた。
 超一流大学とまではいかなくとも、普通に一流大学なら、なんとかなりそうなところまできている。二学年のスタート時でこのレベルならば、受験時には哲郎と同じ大学を目指せるかもしれない。教師たちがそう考えても不思議はなかった。
 哲郎が熱心に勉強を教えているのは周知の事実であり、水町玲子の両親も娘の交際を心から応援している。そうなれば、逸脱した不純異性交遊を堂々と行わない限りは、教師たちも余計な真似をする必要はないと判断する。
 真面目に頑張っていれば、周囲も自然と応援してくれる。高い壁に何度阻まれても、例のスイッチを使って再チャレンジを繰り返した。決死の努力が、ここへきて着々と実ってきている。
 そんな裏事情は知らない水町玲子が、心配そうな顔をしながら「何かあったの?」と尋ねてくる。変に気遣って「何でもない」と応じたら逆効果になりそうなので、ある程度は正直に事情を説明する。
「実は朝から嫌な予感がしてさ。母親の買い物に同行したんだ。そしたら、暴走車が突っ込んできてね。危うく大惨事になるとこだったよ」
 笑顔を織り交ぜて説明したものの、さすがに相手女性もすぐ事態の深刻さに気付いたみたいだった。険しい顔つきで、改めて「大丈夫なの」と尋ねてくる。
「大丈夫だよ。怪我人も出てないしね。今日ばかりは、自分の嫌な予感に感謝したよ」
 そう言って笑うと、ようやく恋人の少女も安心してくれたみたいだった。哲郎と結婚するようなことにでもなれば、水町玲子の義理の母親になる人物なのだ。身を案じるのも当然かもしれない。
「私の家の問題を解決してくれた時もそうだけど、哲郎君の直感って、本当に鋭いよね。びっくりしちゃう」
 変なスイッチのおかげで何度も人生をやり直せるからだよとはとても言えず、哲郎は「まあね」と笑うしかなかった。

 今日ばかりは高校の授業が終了したあと、哲郎は真っ直ぐに自宅へ帰っていた。この日が終わるまでは、まだ安心できないという思いも強かったからだ。
 アルバイトを休めないので水町家へ向かうつもりでいたが、その前に母親の梶谷小百合の元気な姿を見たかった。
「ただいま」
 鍵のかかっていない玄関から家に入ると、忙しく家事をしている母親がいた。いつもと変わらない動作がピタリと止まり、哲郎の顔を見ると笑顔で「おかえりなさい」と言ってくれる。
「今日はお休みなの?」
 お休みかと尋ねられたのは、水町家でのアルバイトについてだ。シフト表みたいなのはなく、いついつが仕事でとはまったく説明していないので、両親は哲郎の勤務予定をまったく知らないのだ。
 加えて普段は、学校帰りに水町家へ直行する回数が増えたため、顔を合わせる機会はおのずと限られるようになっていた。
 少ない会話のチャンスを逃したくないのか、梶谷小百合は哲郎と顔を合わせるたびにあれこれと話しかけてくる。
 それなりに歳を重ねてきているとはいえ、近所でも羨まれる美貌の持ち主なのは未だに変わっていなかった。
 横恋慕しようとする男性も中にはいるみたいだが、頑なな小百合は決して夫――つまりは哲郎の父親以外にはなびかない古風な女性だった。
「いや。これから仕事なんだけど、母さんが無事かどうか確認したくてね」
「無事かどうかなんて、大げさね。怪我はしていないのだから、大丈夫に決まっているでしょう。それよりも、哲郎」
 帰宅直後は和やかな空気だったのに、今朝の話になった途端、雰囲気が一変した。梶谷小百合が説教モードへ突入した瞬間だった。
「学校を無断で遅刻するのは、褒められた行為ではないわよ。どうして今朝は、あんなところにいたのかしら」
 下手な誤魔化しや言い訳は通じないと判断した哲郎は、ストレートに理由を告げることに決めた。といっても、もちろん例のスイッチに関しては秘密のままだ。
「家を出たあとは普通に登校しようとしたんだけど、途中で凄く嫌な予感を覚えてさ。それで引き返してきたんだ」
「嫌な予感?」
「そんな不確かな要素で遅刻するなと言われるかもしれないけど、咄嗟に母さんの顔が浮かんだんだ。だから、どうしても放っておけなかった」
 色々と言いたそうだが、哲郎の遅刻の理由が自分にあるとわかり、幾分か怒りは和らいだみたいだった。
「そうなのね。確かに、あのままだと危なかったかもしれないわ」
 暴走車が接近してくる当時の状況を思い出したのか、瞼を閉じた梶谷小百合が軽く身震いをした。
 直後に開かれた瞳にもう怒りの色はなく、いつもの優しい母親に戻っていた。
「お礼を言うのが、遅れてしまったわね。ありがとう、哲郎」
 微笑む母親の顔が、記憶の中にある映像とリンクする。まるで本来の人生で救えなかった梶谷小百合に、お礼を言われているみたいだった。
 ずっと心に引っかかっていながらも、これまでは水町玲子にかかりきりで救ってあげられなかった。けれど今回の人生では、梶谷小百合も悲劇の結末を迎えずに済んだ。
 これで何の心残りもなく、水町玲子とともに過ごす理想の未来へ突っ走っていける。母親につられて笑顔になった哲郎は「気にしないで」と応じた。
「本当に……良かったよ。安心した」
「お母さんもホっとしているわ。だから、もう遅刻なんてしてはいけないわよ」
「わかってるよ。これでも高校の先生方に、将来を期待されている優等生なんだ。裏切るような真似はできないよ」
 親子で笑いあったあと、哲郎は自分の部屋に戻って学生服から私服に着替える。
 母親の無事も確認できたので、すぐにでも水町家へ向かってアルバイトへ励むつもりだった。

「お母さんが事故にあいそうになったんだってね」
 さほど大きくない田舎町。何か事件が起きればすぐに広まる。娘から聞くまでもなく、今朝の一件は早くも噂になっていた。
 アルバイトをしに水町家へ到着した矢先に、玲子の父親からいきなり話しかけられたのだ。驚く哲郎の肩に手が置かれ「しかも、哲郎君が助けたそうじゃないか」と褒められる。
「さすが、私が見込んだ男だ。自らの身を挺して、家族を助けるなんてそうそうできることじゃない。素晴らしい勇気だよ」
 手放しで褒められまくると、なんだかくすぐったくなってくる。曖昧に微笑んでいると、ひと足先に業務についていた玲子が助け舟を出してくれた。
「お父さん。いい加減にしないと、哲郎君がお仕事に遅れてしまうわ。その辺にしておいてね」
「それもそうだな。ハハハ、娘に叱られてしまったよ。哲郎君も、将来は大変そうだね。尻に敷かれるのが目に見えている」
「お、お父さんたら、や、止めてよ」
 玲子が顔を真っ赤にする横で、母親が楽しそうに笑っている。その様子を見て、父親もより愉快そうにする。
 従来なら、破滅の一途を辿っていた家族とは思えないくらいの幸せぶりだった。本当に良かったと、哲郎は心の底から安堵する。
 いつまでも眺めていては本当に遅刻してしまうので、すぐに作業着へ着替えて仕事場へ向かう。だいぶアルバイトにも慣れてきていた。
 最近では普通のアルバイト業務どころか、正社員がするような仕事まで任せられていた。これも将来、工場を継ぐであろう哲郎への期待の表れだった。
 後継者扱いされるのにも徐々に慣れ、結婚へ向けての雰囲気も否応なしに高まってくるが、生憎と哲郎と玲子はまだ高校生だった。
 玲子は結婚の出来る年齢になっているが、哲郎にはまだ先の話だ。それに大学へ通ったりすれば、また事情も変わってくる。
 哲郎自身は玲子とともに、大学へ進学するつもりでいた。これから先、中卒者が金の卵ともてはやされる時代は終わり、最終学歴で判断されるようになるのを知っているからだ。
 最終的には実力至上主義へと発展していくが、バブル期の前後を始めとした長い期間、学歴がものをいう時代になる。
 今はまだ中学や高校を卒業したら、即就職する人間が大半なだけに、進学する人間へのやっかみもほとんどない。働き口も数多くあるし、誰もが希望に満ちている時代だった。
 実際に水町家が経営する工場の売り上げ成績も右肩上がりだ。次々に新しい社員を雇っては規模を大きくしている。
 しかし過剰な設備投資はバブル崩壊後の負債になるのを知っている哲郎は、事あるごとに恋人の父親にリスクを説明していた。
 元々が人の良い男性であり、なおかつ哲郎には多大な恩義も感じてくれている。子供のたわ言と聞き流したりせずに、真剣に話を聞いてくれた。
 好景気を背景に業務を拡大すべきだという意見が社内で大勢を占める中、慎重な姿勢を示してくれているのは哲郎の配慮してのものだった。
 水町玲子の父親自身も、高度成長期が永遠に続くはずがないと心のどこかで思っているのだろう。さらにいえば田所六郎の件があっただけに、従来よりずっと思慮深くなっていた。
 備えあれば憂いなし。最終的には哲郎の意見が採用され、周囲が銀行からの多大な融資を受けて急成長する中で、水町家の工場だけは地盤をしっかり固めて、地力をつける道を選択した。
 決定が気に入らないと、条件の良い他社からのスカウトに応じて会社を辞める人間も続出した。ただそういうのは若い連中が大半であり、古参の職人たちは社の方針を理解して残ってくれた。
 所長である水町玲子の父親はもちろん、次期トップとなる哲郎の意見に耳を傾けてくれただけでなく、賛同までしてくれた。それがなにより嬉しかった。


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