リセット

  60

 母親の悲惨な姿を見ずにすみ、今日も朝から朗らかな笑顔で朝食を作ってくれる。それが哲郎には、何より嬉しかった。
 水町玲子との交際も順調で、楽しみながら勉強にアルバイトと忙しい日々を送っている。そして近づいてくるイベントがひとつある。
 それは修学旅行だった。これまでの高校生活では孤独を楽しんだだけにすぎないので、実質的に初めてと形容してもいいくらいだった。
 過去に一度も隣にいなかった最愛の女性が、今回の人生では哲郎と一緒に過ごしてくれる。あまりに楽しみすぎて、数日前から満足に眠れなくなっていた。
 人生を何度もリセットして、ようやく恋人がいる修学旅行を堪能する権利を手に入れた。数々の努力をするに値するプラチナチケットみたいなものだった。
 アルバイトの最中も鼻歌交じりになるので、よく他の従業員にからかわれた。事務所にいる玲子も、おかげでよく冷やかされている。
 申し訳ないと思いつつも、体の奥底からこみあげてくる歓喜の衝動には逆らえない。アルバイト後に、いつものとおり水町家で夕食をご馳走になっていると、玲子の父親がとんでもない発言を口にした。
「これがお前たちの婚前旅行になるのか」
 いきなりの暴言に等しき台詞に、たまらず哲郎は口に含んでいたお米を吐き出しそうになった。
 すんでのところで堪えられたが、普段は冷静な玲子が事もあろうに食卓へ突っ伏していた。それほどまでに、所長の発言は衝撃的だった。
 妻である玲子の母親が諌めてくれるかと思いきや、楽しそうに笑っているだけだった。どうリアクションしたらいいかわからない哲郎は、何かを話そうとしては口ごもる。
 どのような台詞がこの場に相応しいのか、さっぱりわからない。高校の成績がどんなに優秀でも関係なかった。このようなジャンルは、学校では決して教えてもらえないからだ。
「お、お父さん……いきなり、何をおっしゃるのですか……」
 ようやく顔を上げた玲子が、かすれた声で自身の父親にツッコみを入れる。丁寧な口調とは裏腹に、顔には様々な感情が含まれている。その中には怒りも存在していた。
「何をって……旅行をするのだろう。いかに学年での行事とはいえ、同じ学級に所属しているのだ。一緒に行動する機会は必然的に増えるだろう」
「そ、それはそうですけど……だからといって、一足飛びに婚前旅行とはなりません」
 幼少時代から娘には厳しかったみたいなのだが、例の一件――田所六郎とのいざこざがあって以来、玲子の意見もだいぶ尊重するようになってくれたと哲郎は聞いていた。
 自らが信頼していた人物に寝首をかかれそうになった経験を持つだけに、娘の自主性を今から養おうとしているのかもしれない。おかげで哲郎は、堂々と恋人の両親と一緒に食事をする機会を得られている。
「そうなのか。付き合いの長さのわりには、なかなか進展がないから心配しているんだ」
 これまた過激かつ衝撃的な一撃が場に放たれた。下ネタも同然なのに、恋人の母親は和やかな笑みを浮かべて「そうなの」と娘へ尋ねている。
 当然のごとく「そうなのよ」とは答えられない玲子は、顔を真っ赤にしたままで、ひたすら食事をとるのに没頭する。
 もう付き合ってられないと無言で通告しており、回答が期待できないのを悟った恋人の父親は、すかさず矛先をこちらへ向けてくる。
「哲郎君は、どう思っているのかな。たまには、男らしさを見せるのも必要ではないか」
「え、は、はあ……そうですね……」
 何度も人生をやり直してきてはいるものの、女性経験に関しては当時とさほど変わらない。哲郎にとって恋人の父親の問いかけは、複雑怪奇な難問でしかなかった。
「もう、お父さんたら……哲郎君が困っているでしょう。ごめんね」
 父親をたしなめると同時に、玲子が謝罪してくる。気にしないでと応じつつも、哲郎はこの話題が終わりそうなので、心から安堵していた。

 様々な冷やかしを浴びせられたりもしたが、哲郎と水町玲子は無事に修学旅行へ参加できていた。
 京都や奈良の寺院などを巡り、日本の歴史についての認識を深める。そもそも修学旅行の最たる目的は勉強なのだ。普通の旅行のように思ってはならない。
 引率する教員も口を酸っぱくして、勘違いしないように何度も生徒たちに説明するが、本気で聞いている者は少数派だった。
 長年の教員生活で教師たちも大体はわかっているので、途中からは仕方ないなといった空気感に変わる。大きな問題を起こさない限りは、大抵の行動は黙認される。
 基本的に修学旅行中はクラスの中で数人同士の班を組み、そのメンバーで行動を共にする。もちろん男女別になるので、哲郎と水町玲子が同一のグループに所属するのは不可能だった。
 だが今も昔も年頃の高校生にとって興味を惹かれるのは、由緒正しき建造物よりも男女交際の有無についてだった。
 すでに公認の恋人がいる哲郎とは、誰もが班を組みたがった。必然的に水町玲子が所属するグループの女性陣とお近づきになれるからだ。
 異性に興味があるのは男性も女性も同じ。水町玲子と同じ班になった面々も、哲郎の班員が誰なのかを真っ先に知りたがった。
 仕方ないなと呆れるのは哲郎と玲子ばかりで、他のメンバーは早くも未来で言うところの合コン状態に突入している。
 目的地に着くまでは電車での長旅が待っている。隣に座っていた同級生が気を利かせてくれて、今現在、哲郎の隣には水町玲子が座っている。
 他の班に先駆けて、哲郎たちと玲子たちは合併するような形で、行動を共にするようになっていた。
 不純異性交遊は禁止だと一応は注意されるものの、教師たちも高校で授業を教えている時ほど厳しくはない。ゆえに生徒は常識を逸脱しない範囲ではめを外せる。
「走行中の電車の窓から見る風景って、綺麗よね」
「常に流れているからね。独特の景色を味わえる」
 お喋りに興じている他の班員を尻目に、哲郎と水町玲子は早くも二人だけの世界に突入している。
 普段ならここぞとばかりにからかわれるのだが、クラスメートたちは目的地へ到着するまでに意中の異性と仲良くなろうと必死だった。
 おかげで電車に揺られながらであるものの、哲郎は久しぶりに穏やかな時間を過ごせた。勉強も仕事もなく、ただぼんやりと車窓の風景を楽しむ。
 隣には大好きな女性がいて、他人に見つからないようにこっそりと手を繋いでみたりもする。甘酸っぱい青春の一ページのような出来事が、哲郎の心を楽しいという感情で満たしてくれた。
 旅行日前に一緒に買い物へも行ったので、お互いにどのようなお菓子を購入しているかはわかっている。仲良く分け合いながら、とりとめのない会話に花を咲かせる。
 普段はアルバイトがあり、それが終われば水町家の家族と一緒に夕食をとる。その後に玲子の部屋へ行くのだが、そこでは勉強が主になる。
 同じ大学へ通うためとはいえ、二人きりでゆっくり会話をする時間は限られていた。それだけに、恋人の水町玲子も修学旅行を楽しみにしていたみたいだった。
 あまりにも顔に出すぎていたため、両親にからかわれるはめになったのだろう。哲郎も巻き添えを食らってしまったが、今ではこちらの緊張をほぐすためだったのだと好意的に解釈している。
「あ、もうすぐ到着するみたいだよ。楽しみだね」
「そうだな……なにせ、婚前旅行だからな」
「ちょ――っ! て、哲郎君まで……な、何を言って……もう知らないっ」
 想像以上に慌てふためいた水町玲子だったが、途中でからかわれたと知り、頬を膨らませてそっぽをむいてしまう。
 笑いながら「ごめん、ごめん」と謝る哲郎の視界には、照れつつも同じく笑みを作っている恋人の顔が映っていた。

 朝早く集合場所の高校を出発していたにもかかわらず、目的地へ到着する頃には夕方近くになっていた。
 初日は移動だけで終わりそうな感じだったが、普通の修学旅行なら何度も経験しているだけに、哲郎だけは慣れっこだった。
 もっともこれまでの修学旅行の移動中は、主に睡眠か読書に費やしていた。本来なら参加するのさえ、面倒に思えていたくらいだ。
 それが今回は他のクラスメート同様に、大はしゃぎで参加している。隣にいてくれる女性の存在のおかげであり、それだけで楽しくて仕方なかった。
 苦労の果てに手に入れた特権だけに、心ゆくまで楽しんでおきたかった。加えて自宅には、元気な母親がいるのも大きい。何の憂いもなく遊べる。
「少しだけ疲れたね」
「大丈夫? なんなら、おんぶしてあげようか」
「どうしようかな……でも、遠慮しておくね。皆に、羨ましがられるかもしれないから」
 冗談じみた提案に、これまた冗談半分で水町玲子が応じる。喧嘩もほとんどなく、哲郎は恋人と非常に仲良くやっていた。
 バスから降りて、宿泊先へ着く前の見学予定地を回る。歴史的な建造物は明日以降向かうスケジュールになっており、今日は近代的な文明を学ぶ。
 数十年先の未来を知っている哲郎には古臭く映るが、この時代しか知らないクラスメートたちは別だった。街にそびえる高層ビルを眺めては歓声を上げる。
 一緒に見学している水町玲子も同じだった。地元では見ることもできない、天まで届きそうなビルを見上げては感嘆のため息を漏らしている。
 たった十数年で、こんなのが問題にならないくらいの超高層ビルが完成するよとはとても言えず、話しかけられれば「そうだね」とすぐに相槌を打つ。
「哲郎君が所長になったら、うちの工場もこんなに大きくなるのかな」
 茶目っけたっぷりに、水町玲子が質問してくる。唇の隙間からわずかに舌を出し、悪戯っぽい笑顔を全開にする。
 素直に可愛いという感想を抱くと同時に、少しだけ虐めたい衝動に駆られた哲郎は、顔のニヤつきを抑えられないまま口を開いた。
「それって、俺へのプロポーズでいいんだよな」
 すぐに顔を真っ赤にして、否定するかと思いきや、恋人の少女は意味ありげな微笑を浮かべてみせた。
「女性からプロポーズされる男性って、格好悪いと哲郎君も思うよね」
 五十年もすれば、男性よりも女性の方が強くなってるよ。そんなツッコみが喉元まで出かかっている。
 とはいえ未来でも、女性が差別される風習はそこかしこに残っている。それらの大部分は哲郎が今いる時代も含めて、過去からの遺産みたいなものだった。
 親が財産ばかりではなく、借金を残したりもするように、遺産には正も負も存在する。けれど子である以上は、必ず受け継がなければならない。
 嫌だと喚くだけで終わらず、負担だと思われる遺産をどのように扱うかでその後の人生も決まってくる。それが人であれ、国であれ、方向性を間違うとろくな未来に発展しない。
「いや。積極的な玲子らしいと思うけど」
「あはは、そうかもしれないね。でも、私はやっぱり求婚される方がいいな。女の子だからね」
 悲惨な未来も知っている哲郎の目には、今の元気で明るい水町玲子の姿が眩しく映る。理想としていた現実を、間違いなく自分の足で歩いていた。
「そうか。それなら、努力するよ」
「よろしい。期待して、待ってます」
 まるで女教師みたいな発言とともに屈託なく笑う玲子は、心の底から修学旅行を楽しんでいた。


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