その後の愛すべき不思議な家族

   2

「い、いや、詳しくも何も……」
  相手の迫力に押され、春道の首筋に嫌な汗が浮かんでくる。もう夜になって、外は涼しい風も吹いてるというのに、やけに暑苦しく感じられた。
  無言のまま仁王立ちする妻に、日中の出来事を説明する。変な誤解は簡単に解けるだろうと思いきや、和葉の表情はまったく変化しなかった。明らかに春道を疑っている。
  しかし、それが事実なのだからどうしようもない。相手が納得してくれるまで、同じ台詞を繰り返すしかなかった。これはかなり苦労しそうだ。春道がそう思っていると、不意にリビングの電話が鳴り出した。天の助けだと思い、すぐに受話器を取りに行く。
「高木さんのお宅ですか。私、葉月ちゃんの担任で小石川と申します」
  声の感じからして、間違いなく日中に高木家へやってきていた女担任だった。本人からの説明なら、和葉も納得するだろう。そう判断した春道は、自分の名前を名乗ってから、状況を相手へ説明する。
「そうだったんですか。高木さんのためにと思って作ったのですが、ご迷惑になってしまったみたいですね。申し訳ありませんでした。奥さんと代わっていただけますか」
  小石川祐子が説明してくれるのだとわかり、安心しきって春道は和葉を呼んだ。受話器を手渡し、説明をよく聞いてくれと告げる。これでもう大丈夫だ。春道は食卓へ戻り、大きなため息をつきながら椅子に腰を下ろす。
「お電話、誰からなのー」
  隣には先に座っていた葉月がおり、電話内容についての質問をしてくる。
「ああ、先生からだ。小石川先生」
  せっかく回答を与えたのに、当の少女は興味なさそうに「ふ〜ん」と口にしただけだった。以前のいじめ問題で何の助けにもなってくれなかっただけに、あまりいい印象を持ってないのかもしれない。
「そう言えばー」
  話題にもしたくないのかと思いきや、唐突に葉月が声を発した。
「この間、今度のお休みは家族でどこか行くのーって、葉月やママ、それにパパの予定を何度も聞かれたんだよー」
「聞かれた? 先生にか?」
  春道の質問に、少女がコクンと首を縦に頷かせる。変な嘘をついたりしないだけに、まず間違いないと思っていい。そうなると、小石川祐子は今日の昼、家に春道しかいない事実を知っていた計算になる。
  ――ガチャン! 春道が嫌な予感を覚え始めた頃、音が鳴るほど激しく受話器が置かれた。もちろん和葉の仕業だ。何事かと相手を見れば、先ほどよりもずっと鋭い視線が春道へ向けられた。
「……夕飯にしましょう。葉月には、ママが美味しいご飯を作ってあげるからね」
  春道に見せていた表情から一転、笑顔で葉月に話しかけたあとで、和葉はエプロンを身に着けてキッチンへと立つ。
「やったー。パパも楽しみだよねー」
  葉月がそう口にした瞬間、ピクリと和葉の肩が震えた。背中を向けてるのに、どんな顔をしてるのか大体想像がつく。それほどまでに、強烈な怒気が放たれているのだ。
「パパはいいのよ。ママのご飯なんかより、ずっと美味しい料理があるもの」
「そうなんだー。この肉じゃがってそんなに美味しいのー。葉月も食べてみようかなー」
  場の空気を少しでも和ませようとしたのか。それともただの天然か。この状況下で、少女がとんでもない台詞を発した。
  ――ダンっ! これまではトントンと小気味いい音を立てていた包丁とまな板によるメロディが突如、荒れ狂った巨像の踏みつけのごとき迫力と衝撃を発生させた。これにはさすがの葉月も驚いたみたいだった。
「マ、ママ……?」
「あら、ごめんなさい。少し行儀が悪かったわね。……それで、葉月はどうしてもその肉じゃを食べたいの?」
  和葉はいつもどおりの笑顔で話しかけてるつもりだろうが、実際には大きくかけ離れている。例えるなら般若。すれ違えば誰もが振り返るような美貌が、恐ろしいまでの迫力を伴って変貌していた。
「ご、ごめんなさい……」
  別に悪いことをしたわけでもないのに、次の瞬間には謝罪の言葉が少女の口からでてきた。声も小刻みに震えており、長年苦楽を共にしてきた娘ですら、母親の現状にとてつもない恐怖を感じてる証拠だった。
「変な子ね。何で謝る必要があるの。食べたいなら素直に言えばいいでしょう。ママに気を遣う必要なんてないのよ。さあ、遠慮しないで食べなさい」
  台詞とは裏腹に、和葉の口調には優しさなどは微塵もない。かろうじて保たれている笑顔ではあったが、目つきは鋭すぎるほどに細められている。
「は、葉月、ママのご飯大好きなの。だから、肉じゃが食べないで、待ってたいなー」
「あら、そうなの。仕方のない子ね。なら早めに作るから、もう少し我慢してなさい」
  口調にもいくらか柔らかさが戻り、葉月の身体からも緊張が解けていく。張り詰めていたリビング内の空気が緩和され、ようやく普段に近い雰囲気となる。なんとかするなら、このタイミングしかない。春道はそう確信して、口を開いた。
「お、俺も――」
「――は? 貴方には肉じゃががあるでしょう。私の料理なんて食べる必要があるとは思えません」
  ピシャリと言い放たれ、真剣を喉元へ突きつけられてるかのような緊張が復活する。子供であるだけに、場の雰囲気を人一倍感じ取れる少女が、泣きそうな顔で春道を見る。
「パ、パパぁ……」
  見つめてくる瞳には、様々な感情が含まれていた。何故母親が怒っているのか。そして、この肉じゃがは一体何なのか。疑問をぶつけたいのに、和葉の背中から漂ってくる威圧感に押されて口さえ開けないでいるみたいだ。
  ここは和葉の夫で、葉月の父親である春道がなんとかするしかない。というよりも、騒動の元凶であるのは間違いないので、そうするのがむしろ当然だった。小石川祐子との電話で何があったのかは知らないが、この扱いはさすがに理不尽すぎる。
「おい、いい加減にしろ。俺が一体何をしたって言うんだよ」
  葉月ではないが、和葉の無言のプレッシャーに押され、しばらく立ち尽くしてるだけだったが、意を決して春道は相手の背中へ言葉をぶつけた。
  包丁を動かしていた和葉の手が止まり、ゆっくりと春道を振り向き、侮蔑を色濃く宿した視線を向けてくる。
「よくそんな台詞が言えますね。自分の胸に手を当てて、考えてみたらどうですか」
  そんなことを言われても、春道には思い当たるふしがない。小石川祐子の件にしても、相手が勝手に家庭訪問だと言って押しかけてきた挙句、これまた勝手に肉じゃがを作って帰っていたのだ。
  相手の嘘を見抜けなかったのを責めてるのだとしたら、少し酷すぎるというものだ。あれだけ用意周到に事前準備をされたら、そうそう見破れるわけがない。それに春道は、葉月の小学校の行事について詳しくない。
「だから、ど、どういうことだよ」
  相手に負けないよう強い態度で接したいのだが、なかなか思うとおりにはできない。怒れる女性の迫力が、よもやこれほどまでに凄まじいとは思ってもいなかった。
「……忘れていましたが、小石川先生から伝言を頼まれていました」
「伝言?」
  ボソリと呟かれた台詞に、春道は嫌な予感を覚える。和葉の機嫌がここまで悪くなったのは、葉月の担任である女教師との電話が終わってからだ。
  誤解と解くと言ってたはずだが、実際には余計に酷くなっている。小石川祐子が、春道の意にそぐわない発言をしたのだけは間違いなかった。
「日中に、春道さんのベッドに口紅を忘れてきたみたいですよ。届けてあげたらどうですか? あとでなんて言わず、今すぐ先方のお宅へ伺ってもよろしいと思いますよ」
「く、口紅? 何でそんなものが俺の部屋にあるんだ」
「それは春道さんが、一番よくご存知なのではありませんか」
  視線が軽くぶつかっただけで、火花が散ったようにピリピリとした熱さが伝わってくる。頬を伝う嫌な汗の量が増し、春道は恥を覚悟で葉月に救いを求める。
「そ、そういえば、ま、まだ宿題が残ってたんだー。晩御飯ができるまで、葉月、お勉強してるねー」
  申し訳なさそうに春道から視線を逸らし、頼りにしていた少女はそそくさとリビングを後にしてしまう。いつもなら、和葉が色々世話を焼こうとするのだが、今日に限ってはそんな素振りひとつ見せない。
  娘に見捨てられた哀れな父親は、目の前にいる獅子のごとき女帝と、ひとりで対峙品ければならなかった。
  完全に迂闊だった。もしかしたら、小石川祐子は最初からこの展開を狙っていたのかもしれない。運動会の時、あっさり袖にしたのがそんなに気に入らなかったのだろうか。ともかく、もう少し相手を疑うべきだった。
「ま、待て。これは罠だ」
  春道に覚えがない以上、私室に口紅なんてものが存在してるはずもない。女教師による謀略だと説明するが、ここまで話がこじれてるだけに、そう簡単には和葉も納得してくれない。
「わかりました。そこまで言うのなら、春道さんの部屋へ行きましょう。そうすればハッキリするはずです」
「そうだな。それが一番――」
  ――いい方法だ。そう言いかけたところで、春道は口をつぐんだ。ここまで用意周到に準備をしていたあの女担任が、こんな簡単に誤解が解けるようにしておくだろうか。春道が目を離していた隙に、こっそり私室へ行って口紅を置いてきてる可能性もある。
  憶測でしかないが、万が一当たっていた場合取り返しのつかない事態になるかもしれない。そう考えれば、最初はひとりで私室に入るのが最も望ましい。けれど、それでは和葉が納得しない。
「どうしました。やはりやましいことがあるのですか。それならそれで構いません。最初からこの結婚は、葉月のためでしかなかったわけですしね」
  煮え切らない春道の態度に業を煮やし、半ばキレ気味に和葉が言葉をぶつけてきた。かなり強烈な威力で、ボクサーによるボディブローみたいに腹の奥までズシンと響く。
  確かにどちらかといえば、春道に非があるのは間違いない。娘の担任とはいえ、簡単に信用しすぎてしまった部分は否定できないからだ。だがそれ自体、不可抗力と言えなくもない。
  和葉が応対してたとしても、プリントを見せられれば、訝しげに思いながらも女担任を家に上げていた確率が高い。そう考えると春道が直面してる現状は、なんだかとても理不尽な気がする。
  考え方が若干の変化を見せると、心境にも影響がでてくる。申し訳なさが段々と怒りに変換されるのだ。春道ばかりが責められる状況に、納得がいかなくなってくる。
「いい加減にしろよ。俺には覚えがないって言ってるだろ。しつこいぞ」
  まだブチブチとねちっこく続けられていた和葉の文句を、春道はバッサリと途中で切って捨てた。相手もまさか反撃されると思ってなかったらしく、強い口調を浴びせられた直後は何が起こったのかと僅かな動揺を見せる。
  けれどそれも一瞬の話だった。元々が冷静な和葉は、すぐに状況を理解して春道を睨みつけてくる。
「開き直ったわけですか。最低ですね。己の非を認めて謝罪するどころか、逆切れをされるとは想像もしてませんでした。さすがは春道さんです。色々と私の想像をあっさり超えてくれますね」
「おいおい、そこまで言うかよ。大体、結婚前の条件で、俺が誰と付き合おうと自由だって言ったのは和葉だろ」
  言い終わったあとで春道はハッとする。売り言葉に買い言葉で応じてしまったが、先ほどの台詞内容では、間違いを犯してしまいましたと告白してるようなものだ。しまったと後悔しても、時計の針は決して元に戻らない。
「……え?」
  どれほどの罵倒を浴びせられるかと構えていた春道は、思わず目を丸くしてしまった。先ほどまでこちらを睨み殺さんばかりだった女性が、視界の中で涙をこぼしている。想定外すぎる光景に言葉を失ってしまう。
「……そのとおりですね。失礼しました」
  悲しそうな和葉の呟きは、これ以上の会話をすべて拒絶していた。以降は話しかけることもできず、春道は無言で自分の部屋へ戻るしかなかった。


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