その後の愛すべき不思議な家族

   3

 翌日。春道が目覚めた時には、和葉と葉月の姿はなかった。普段なら、それぞれ会社と学校に行ったのだろうと気にも留めないが、今回ばかりは違った。
  毎日きちんと用意されてるはずの春道の朝食はなく、葉月の部屋を覗いてみればやけに部屋の中が片付いている。ランドセルも勉強机に乗っており、どう見ても登校した雰囲気はない。恐らく、和葉が娘を連れて出て行ったのだ。
  行き先に心当たりがないわけではない。かなりの確率で、和解したばかりの実家へ戻っていると想像がつく。春道の仕事も切羽詰ってるわけではないので、少し遠いが今から迎えに行くのも悪くない。
  というよりも、頭を下げに行かなければならない。何故なら、今回の原因を作ったのは他ならぬ春道なのだ。もっと深く掘り下げれば、正確には小石川祐子が元凶なのだが、今さら他人のせいにしても仕方ない。
  昨夜の失言が引き金であるのは間違いないし、こうしたケースでは長期化すると、どんどん謝る機会を失ってしまう。とにかく顔を洗って着替えよう。春道がそう決めると、待ってたかのようにリビングにある電話が鳴り出した。

 呼び出されたファミリーレストランで、春道はひとり席に座りながら注文したサンドイッチを食していた。せっかくこういった店に来たので朝食をとっているが、お腹が空いてたので丁度いいタイミングで電話してもらえたな。などとは微塵も思っていない。
  卵とレタスをサンドしたパンを、ガツガツとむさぼっては同時に頼んでいたコーヒーで一気に胃袋へ流し込む。よほど不機嫌な顔でもしてるのだろうか。食事中の春道に、先ほどから何度となく店のウエイトレスが視線を向けてくる。
  運ばれてきてから、一分たらずで春道はサンドイッチを完食した。お腹はある程度満たされたものの、心はまったく満足していない。待ち合わせ時間まではまだ少しある。若干苛々しながら腕時計を見てると、電話をかけてきた人間がようやく到着した。
「すみません。お待たせしてしまったみたいですね」
  そう言ってぺこりと頭を下げたのは、昨日の騒ぎを演出してくれたプロデューサーこと小石川祐子である。とはいうものの、相手を責めるつもりはまったくない。やはり、少なからず春道にも原因があるからだ。
「で、用件は何ですか? 口紅ならありませんでしたよ」
  昨日、春道が女教師から目を離した時間は、どれだけ多く見積もってもそんなにない。初めて同然の家で的確に狙いの部屋を探し出し、口紅を置いてくるなんて芸当は不可能だったのだ。少し冷静になって考えれば、解答を導き出すのはそんなに難しくなかった。
「え? 何の話ですか」
  キョトンとした様子で女教師が尋ねてくる。演技にはとても見えないが、家庭訪問の一件もあるので素直に信じる気にはなれない。
  相手を立たせたままにもしておけないので、とりあえず正面の席へ座るように勧める。小石川祐子はまだ訝しげにしているが、春道の言葉に従って一応は椅子に腰を下ろす。
「ええと、あの……先ほど、口紅がどうとか言われませんでした?」
  とぼけてるのかどうか判別ができない。どちらかといえば、本当に知らないようにも思える。しかし様子を見るために、まずは昨夜の出来事を相手へ説明する。
「そ、そんな……! 私、きちんと奥さんに説明しました。その上で、誤解をさせてしまって申し訳ありませんでしたとお詫びしました。奥さんも受け入れてくださったので、安堵して電話を切ったんです」
  そこまで言ってから、春道の正面に座っている女教師が顔を俯かせる。かすかに肩が震えて泣いてるようにも見えるが、現在の体勢ではそこまで詳しくはわからない。かといって、泣いてるかどうか徹底的に確認しようなんて気にはなれない。
  どうしようか悩んでいるところに、ウエイトレスが水を運んできた。先ほどから、何度となく春道と目が合っていた例の女性である。新たに席へついた小石川祐子の分だろう。水が入っているコップをテーブルに置き、女教師を一瞥したあとで立ち去っていく。
  接客業に携わる人間として、今の態度はどうかとも思うが、いちいちクレームをつけるのも面倒なので放置しておく。それより問題なのは、目の前にいる女性である。運動会の一件がありながら、娘の担任教師というだけで信用しすぎてしまった。
  だからといって、何度も同じことを後悔し続けていても仕方ない。黙っていても事態は悪化するだけだ。好転させるには、自ら行動を起こすしかないのである。まずは女教師の説明が正しいか、きちんと考慮しなければならない。
「……先生の説明どおりだとしたら、どうして妻は私に嘘をついたんでしょうね」
  言葉に気をつけながら、普段とは違う丁寧な口調で女教師に尋ねる。軽いジャブみたいなものだったが、正面に座っている女性への効果はほとんどなかった。
「わかりません。あ、でも……」
  そこまで言って、女教師は口をつぐんだ。次の台詞を言おうかどうか悩んでるみたいだが、そんな真似をされれば気になって当然。次の言葉を尋ねてくださいと、春道へ暗に要求してるようなものだ。
  言いたくないなら結構です。などと言えるわけもなく、恐らくは相手の意図どおりに春道は「気にしないで続けてください」と声をかける。すると小石川祐子は、少し申し訳なさそうにしながらも再び口を開いた。
「春道さんと別れたがっていて、私を利用したのかもしれません」
  相手の発言に、春道は思わず椅子からずり落ちそうになってしまった。どちらかと言えば引き篭もりぎみな仕事をしてるだけに、最近の女性の傾向なんてまったく知らない。唯一知っているのが旧姓松島和葉くらいだ。
  そして現在は高木和葉となっている女性は、そんな駆け引きをするようなタイプではなかった。一緒に暮らし始めてから、まだ一年も経ってないとはいえ、それぐらいは女性に対して鈍感な春道でもはっきりとわかっている。
  怪しいのは担当している児童の父親を、さん付けとはいえ、名前で呼んでくる女教師の方だった。運動会でも、春道が断った途端に逆ギレした光景が脳裏に蘇ってくる。
「お気を悪くしたら申し訳ありません。でも、思い当たるふしもあるんです」
  とりあえず、思い当たるふしとやらを聞くべきだろう。春道が内容について質問すると、水を得た魚のごとく小石川祐子が瞳を輝かせ始めた。
「春道さんがくる前は授業参観などの行事があれば、よく他の児童の父兄から声をかけられていました。その中のひとりと、深い関係になっていたとも考えられます」
  そんな昼メロみたいな展開が現実に起こりえるのだろうか。春道がそんなふうに考えてるとは露知らず、ここぞとばかりに小石川祐子は和葉の浮気疑惑について説明してくる。
「春道さんが戻ってきたことで、関係を解消したのでしょう。ですが、男女の仲というのはそれほど簡単ではありません。結局お互いに相手を忘れられず、再度不倫をしてしまった。悩んでいた奥さんが、私からの電話をチャンスと考えて嘘をついた」
  一気に口にしたあとで、喉を潤すために小石川祐子はコップを手に取って水を飲んだ。そう言えば、先ほどのウエイトレスにコーヒーを注文していたはずだが、未だに持ってくる気配はない。少し、時間がかかりすぎてるような気もする。
  本来ならそんなことよりも、小石川祐子の台詞について考えなければならないのだが、どうにも本気で信憑性を判断する気になれなかった。確かにそんな展開は絶対にないと言い切れない。けれど、あの和葉がそんな真似をするとも思えない。
  万が一そのとおりだったとしても、正直に自分の罪を告白して謝罪するタイプだ。それに出会った当初の和葉は、娘こそが自分のすべてと言わんばかりの女性だった。だからこそ、春道との結婚も決意できたに違いない。
  春道がそんな考えに至ってるとは露知らず、目の前にいる女教師は潤んだ瞳から一粒の涙をこぼしてみせた。思わず周囲に目薬の存在を探してしまったが、どうやらそのような類の小道具は使用してないみたいだった。
「春道さんがかわいそうです……私だったら、絶対にそんな真似はしないのに……」
  これが演技だとしたら、小石川祐子は教師よりも女優になった方がいい。それだけ相手の口調や仕草には真剣みが合った。和葉と出会った当初の春道なら、もしかすれば女教師へ気持ちを傾かせていたかもしれない。
  けれど現在は違う。再び一緒に暮らし始めてからは、食事を同席するなど、共に行動する機会が圧倒的に増えた。始めの頃は二人ともどこかぎこちなかったが、最近ではずいぶんとスムーズな会話もできていた。
「あの……春道さん」
  考え事を続けていた春道に向かって、小石川祐子がテーブルの上からわずかに身を乗り出してきた。相手の顔が眼前に迫り、吐息さえも届いてきそうだった。
「こんな時に言うのは不謹慎かもしれませんが、私は今でも春道さんに好意を抱いています。もし、よろしければ――」
「――ごめん、無理」
  小石川祐子の台詞の途中で、春道はあっさりと拒絶の言葉を口にしていた。あまりにもスパッとした展開に、ここまでムードを作ってきた女教師も「え?」と若干間の抜けた顔で驚いている。
「運動会の時にきちんと断ってたと思うんだけど、俺の気のせいだったかな」
「そ、それは……ど、どうしてですか!? 奥さんは春道さんを裏切ったんですよ。そんな人に義理立てする必要なんてないじゃないですか。それとも、浮気されても諦められないなんて、女々しいことを言うつもりなんですか」
  ほとんど息継ぎもせずに、長い台詞が春道へと一気にぶつけられた。だいぶ感情的になっており、運動会での姿が思い出される。
「女々しくても結構だが、まだ浮気されたと決まったわけじゃないだろ。本人から話を聞く前に決めつけるのはよくない」
  小石川祐子の用件に、娘の葉月は完全に無関係なのでこれ以上敬語を使う必要もない。それに、丁寧な応対をするのにも疲れていた。タメ口で答えたあと、春道はカップの中に入っているコーヒーを口に含んだ。
「浮気してるに決まってます! それなら私の説明を、どうして変なふうに春道さんへ伝えたんですか」
  喉を潤してる間にも、しつこく女教師が食い下がってくる。どうやら向こうは、どうしても和葉が浮気してることにしたいらしい。
「それについても、本人に確認しないといけないな。俺が直接、先生の説明を受け取ったわけじゃないんでね。何なら、今ここに呼んで話をしてみるか」
  カップを置いて問いかけた春道に、一瞬ウッと唸るような表情を見せながらも、小石川祐子は「私は構いませんよ」と強気な態度で返してきた。ここまできたら、例え嘘だったとしても引っ込みがつかないに違いない。
「悪いけど、どんな方法を使っても俺はアンタと付き合うつもりはないぞ。こんなことに労力を使ってる暇があるなら、他の男を追いかけた方が有意義だと思うけどな」
  ため息をついたあとで発した春道の台詞は、思いのほか相手の精神へダメージを与えたみたいだった。小石川祐子は明らかに動揺し、瞳を左右にキョロキョロさせる。これで和葉と女教師、どちらが正しいのか証明されたようなものだった。
  子供じみたところのある女性だけに、完璧な嘘をつくのにはむいていない。簡単にバレる作戦を立てても、逆に自分を窮地へ追い込むだけだ。それすらわかっておらず、なおかつ悪いことをしてる自覚もないはずだ。だからこそ、余計に質が悪いのである。
「……どうして? どうして、私を選んでくれないんですか。今までの男だったら、全員私を選んでくれたのに!」
  今の台詞から察するに、これまでそういった恋愛経験しかしてこなかったのだろう。今回みたいな方法を使ってでも、意中の相手を振り向かせようとする姿勢にもなんとなく納得できた。しかし、春道が相手の要望に応じるかは別問題だ。
「結婚してる男性もいた。でも最後には、パートナーじゃなくて、私のところへきたわ。私にはそれだけの魅力がある。なのに春道さんは拒絶する。理由がわからないわ。そんなに奥さんが大事なの!?」
「当たり前だろ。一生この女ひとりだけでいい。そう思うから結婚するんだ」
「……!」
  春道が自分の考えを口にした途端、小石川祐子は目をまん丸にしてしまった。あまりの驚きっぷりに、それほど世間一般と価値観がズレてるのだろうかと心配になってくる。
「他の奴はどうか知らないけど、少なくても俺はそうだ。これでこの話は終わりだな」
  何故か妙に恥ずかしくなってきた春道は、赤面しないうちに立ち去ろうとテーブルの上にある伝票を手に取った。


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